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皆さんって素晴らしい人間ですね。

様々な方の自己紹介noteを見させていただいて思った事です。
「誰かのためになりたい!」「自分の意見を発信したい!」という力がみなぎる文章に、私は強い眩しさを感じ、目がチカチカしてしまいました。
私自身が何せ空っぽな人間ですから、noteも「日々の思考を記録しておかないともったいない」程度で再開しています。
その記録をしたところで自分が楽しいだけですが、そもそも創作なんて自己満足の塊なのだから、特に気にすることはないでしょう。
とはいえ、皆さんの他人へ奉仕する気持ち、優しさ、ラブ、そのようなものを感じながら、その気概こそが人を人たらしめるのかもしれない、と思った次第です。

一方私はと言うと。
障害者、ニート、アラサー。
正直肩身は狭いです。
というかこの世に居場所がありません。生存権に五体投地する日々です。
生存権が無ければ、私は今頃暴れ牛に括り付けられ、ド田舎を引きずり散らかされていた事でしょう。

昔、現状を打開すべく、自身のプロフィールを売り出し、仕事を募った事がありましたが、周囲に「あなたはつまらない人間ですね」と言われて辞めました。(別にその人が仕事をくれるわけでは無かったが)
そう、私はとてもつまらない人間で、noteなどを通じて有益な情報を発信するなんてことは恐れ多くできないのです。
その、皆さんの「自信」というものに、私は畏怖を覚えました。

仕事をするというのも、立派な他人への奉仕です。
もちろん、仕事をする方法なんて選ばなければあります。
私自身、アルバイトに何度もトライして玉砕する時期もあったし、就労移行支援に通ったこともありました。
当時は、労働に対して真摯に向き合う姿勢を見せなければ、周囲からの冷たい視線に耐えられなかったからです。
アルバイトの仕事についていけない自分を俯瞰するたびに、意識が遠のいて、気づくと倒れている、と言う事が増えました。
全てが無理になり、ODをして救急に運ばれることもありました。
生きていること自体が罪だと、ボロボロの心身を引きずりながら。
真夜中に目を覚ますたびに「あの日死ぬべきだった」と思う日々を繰り返しながら。

しかし、結局今は家で猫と遊びながら、世間に申し訳なさを感じつつ生きています。

とりあえず今は、生き延びることを第一に考えよう。
かえって今の状態で社会に出るのは、逆に迷惑になるかもしれない。
犯罪さえしなければ、とりあえず生きててもいい。
どれだけ無価値な人間であったとしても。

今のような生活ができるのは、家族の理解があってこそです。
周囲からは理解されないこともありましたが、一番身近な人間から莫大な優しさを与えられる環境に居たことは、私の宝だと思っています。

私の生き方に忌避感を覚える人は多いと思うし、実際そのような意見を伝えてくれた方もたくさんいました。
しかし、やはりどうしても他人は他人の全てを理解することはできず、想像力でカバーするのにも限度があります。
私の辛さと、相手の辛さを天秤で測るのは愚かなことです。
人には人の辛さがあるのだから、比較するものではないと思います。

久々にスケジュール帳を開き、過ごした日々を想起しながら、カレンダーにシールを貼りました。
たくさんあったシールはあっという間に無くなり、気づかぬうちにこれだけの日々を通り過ぎていたのだと感じました。
どれだけ分かり合えなくても、時間だけはみな平等に与えられている。
それがどれだけ大切な事か、改めて痛感させられた気がします。

ニートであっても、同じ日は一日として来ない。
それでは、また明日。

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