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社員はやさしいと弛む。厳しくあるべき。しかし「厳しい」って一体何だ?

職場では、なぜか、やさしさは評価されない。社員はやさしくすると弛む。ミスは増える、真剣に取り組まない。厳しくなければダメだと。。。

ボクはこの文脈での「厳しさ」は職場に不要だと思うのだ。この文脈というのは、やさしくあると弛むから厳しくあろう、という時の「厳しさ」。ボクにとっては、なんだか「不快な」イメージが喚起される「厳しさ」。

ということで「厳しさ」の定義にもよるし、言葉の綾とも言えるのだけど、「厳しさ」は不要だと思うのだ。

例えば:
「甲子園に出るために”あるべき”野球練習・筋トレをしている。毎日毎日。朝から晩まで。そして、練習中に水を一滴も飲ませない!を徹底し、忍耐を経験させている」

甲子園を目指し、毎日長時間、休日なく練習している、のだから、当然に「厳しい」練習となる。でも、この「厳しさ」に不快はない。一生懸命頑張っているのね、大変だ。仮に試合で負けてもそれは将来に必ず役立つ財産ね、と思う。でも、水を飲むな!というのは無意味で無価値な「厳しさ」。不快です。

水を飲むな!で忍耐を教えようとするビジョン・目的が間違っているし、言い返せず盲目的に従う風土もおかしい。監督のリーダーシップが狂っている。

こういう「厳しさ」は不要、と言うと反論はないと思うのです。

で、甲子園をめざす練習同様に、職場というものは自然に「厳しく」なるのです。だから、そこに付加して意図的に更に厳しくする意味がわからないのです。会社と言うのか、組織と言うのか、「真剣」であればこそ、必ず「厳しく」なるのです。

だって、ビジョンの実現に向け、まだない未来の創造に向け、価値観などが違う多様な立場の他人と、リソースが限定され、競争相手もいる中で、日々、愚直に終りなき課題に挑戦を繰り返しているのだから。

そして、上下関係・指示命令関係・強制・評価という「不快な」チカラがどうしても自然発生する。

会社とはそもそもこういう「厳しさ」を内包するから、社員は逃げたくなる時があるのだ。厳しいからこそ弛みが必要なのだ。それなのに弛む隙間も与えないという思考がおかしい。厳しいから弛むのに、厳しくしないと人は弛むし、会社に貢献しない、と誤解して、さらに異常な無理難題を押し付けたり、有無を言わさない上意下達や、ミスを許容せずにすぐ低評価する、威圧的・恐怖的・暴力的であろうとするのは、逆効果。「練習中に水を一滴も飲ませない」と同様で気が狂っているし、社員はチカラを発揮できないし、結局、辞めていく。

つまり、会社のリーダーシップが間違っているし、その結果のビジョン・風土・仕組みなどが間違っている。

だから、逆だと思うのです。自然に「厳しく」なるからこそ、「やさしさ」が必要だと。水はどんどん飲ませるべきなのだ。

ここでボクが思う会社の「やさしさ」とは、思考・行動の源になるビジョンや指針をちゃんと示し、いつなんどきも将来への希望を皆に運び、ミスや失敗を許容し、そこから学び、臆せず次への挑戦に促し、仲間の次の成功を信じ、そう伝え、時に褒めたり、冗談言ったり、笑顔で指導し、仲間の個性を尊重し、秘めた力を発揮させて、そして、仲間でいてくれることへの感謝を忘れない。こういうことかと思っています。

厳しく言わないとひとは動かない、と思っているひとは、自分も厳しく言われないと動かない低レベルの人格だと認めていることになる。あるいは、自分はレベルが高いが他者は低いから、厳しく管理しないとダメ、と思っているとしたら、それこそ最悪。あるいは、自分もダメダメなんだけど、一旦、そのことは棚にあげさせてもらって、他者に厳しく言うべき時がある、という意見は理解できるが、厳しく言うのは自分のストレスを解消したいだけ、ということに気づいて欲しい。厳しく言いたいだけ、なのだ。自分のためで、相手のためでははい。そういうことで結局、リーダーの精神が弱い、ということに落ち着く。

しかし、自分も含めて多くが未熟で成長過程。だから、思わず厳しくしたくなる。でも、だからこそ、なるべく我慢し、「厳しさ」とは定義されない別のアプローチで解決すべく努力すべき、なのだ。「やさしく」あろうとすべきなのだ。会社なるものはどう考えても真剣であるならば「厳しい」場なのだから。。。

「水は飲ませるべき」かな、「やさしく」あるべきかな、と。真剣だからこそ厳しくなる。普段は厳しいからこそ、やさしさエッセンスが必要、かな。



読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_8)


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