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あなたは何のプロフェッショナルですか? 自分の"心"のプロになりたい。

職場近くのいつものパスタ屋さんでお昼ごはん。本日のパスタを尋ねると「何がいいですか? お好みを何でもつくりますよ」と常連への気遣い。が、そう問われてもボクには「パスタ”力”」が無いから依頼できない。トマトベース、オイルベース、太い/細い麺、ぐらいしかわからない。「お任せするよー」と返事すると、砂肝とうんちゃらとうんちゃらのパスタはどぉ?とのことで、それにした。砂肝しかわからなかった。

「へぇーそんなパスタがあるのね? しかし詳しいよね! あ、ま、プロだものね。料理が趣味なひと、ではないものね!」。

そこから色んなパスタの話になる。当然、料理人なので、詳しいし、拘りがある。ボクの知らない食材も登場。で、色んな言葉、名詞、形容詞、表現が多彩。

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で、思い出したのが、noteでフォローさせて頂いてる方から教えてもらった美術に関する素敵な本。画家の先生から芸術家の卵である生徒への手紙や講義録を集めたもの。「アート・スピリット」(ロバート・ヘンライ著、野中 邦子訳、国書刊行会)。

ボクは美術に疎いです。どこまで理解しているか、なのですが、この本で感銘したのが、このヘンライ先生の美術的行動に対する表現がとても多彩なのです。素描やスケッチ、色彩選びや筆遣い、パレットやキャンバスの使い方、モデルの見方、など、そして「美」についての表現がとにかく多彩。びっくりするほどに。

例えば:
「素描が退屈に見えるとしたら、努力に値するだけの動機がなかったせいかもしれない」とか、
「美は物質ではない。美は模倣できない。美は見る者の心に生まれた快楽の感覚である。」とか、
「一本の線で、人は沈黙に沈むこともあれば、曖昧さの淵に陥ることもある。そうかと思うと、騒音に包まれ、明晰さを感じることもある」とか。。。

うーん、これこそがプロのなせる技だ、と感心。マスターのパスタに対する表現も同じ。プロって、その道で努力を継続して来たひとって、そして先生のように伝える側、チカラを引き出す側のひとは特に「表現」が豊かなんだろう、と思ったのです。

多様な細かい違いのパターンを経験している。その違いを表現しないといけない。同じ対象でも自分自身の心の機微で感じ方が違う。これも表現しないといけない。あるいは、同じテーマを伝える場合も相手によって表現を変化させないといけない。

だから、考えて、考えて、考えて。結果、言葉が豊富になる。より適切な言葉を選び、異なる表現をする。多彩。

「考えることなしに、人はどこへも行けない。自分のしていることについて考える時間もないほど忙しさに追われている人びとは、いくらがんばっても無駄な努力である」(同上の書籍から)

ドキっ。もはやボクの仕事やらnoteやら人生を批判されているよう。。。とにかく何もプロではないボクにはこんな表現力が微塵も無いのだけど、これがプロか!と思ったのでした。ま、まずはこの気づきで良しか。。。

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ちなみに、言葉を豊富に/多彩に使えるひとは精神的に強いらしいです。病気になり難いらしい。例えば、極端ですが、「楽しい」と「辛い」しか知らないと、日々、そりゃ辛い辛いになりがち。で、心の病気になってしまう、みたいな。

でも、「辛い」以外にも、ほどほど、そこそこ、そんなもの、そういう時もある、気にしない気にしない、可でもなく不可でもなく、山あり谷あり、成長痛、雨の日もある、逆らわずに調和、何事も勉強、がんばった、自分は悪くない、明日は明日の風が吹く、逃げるが勝ち、とかの表現も知っていると、自分の感情を他のポジションに変換できそうです。

確かに、幅広い表現を知っておくと、気持ちを底辺ではないと再定義し、自分に言い聞かせられるし、自分の心を穏やかにできえる、かなと思います。多彩な言葉・表現を自分自身にこそ駆使したいですね。

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ということで、ボクはパスタも美術もその他も、何に関してもプロではないけど、少なくとも自分自身に対するプロになりたい、そう思ったのでした。自分が、心を穏やかに、前向きに、健やかに、楽しく、笑顔で、夢に近づきながら、大切なひとの役に立ちながら、日々生活できるように、自分の感情を正しく誘導するプロ。だから、自分の気持ちを多彩な言葉・表現を駆使して定義できるよう努力しないとですね。


読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_16)


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