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どの寿司ネタが一番好きだった? に回答できない。おバカ?コミュ力不足?

親戚が海外から一時帰国。寿司を食べたい、とのことで、ボクも混ぜてもらう。近くのお寿司屋さんへ。気軽で、価格も手ごろ、でも、美味しい。おつまみ無しで寿司ばかりを注文。

で、その親戚が「おいしかった。お腹一杯。何が一番美味しかった? どれが一番好きだった? 私は中トロと言いたいけど、赤貝かな。ノドグロも美味しかった。やっぱ赤貝かな」とのこと。

さて、ボクは「一番」と尋ねられ答えられない。「一番は何?恐怖症」なのだ。って、単なる屁理屈なのだけど、10貫ほど食べて、そもそも何を食べたかも明確に覚えていない中、「一番は何?」と問われ、比較ができない。どれも美味しかった。どれが一番なんて即答できない。パソコンか、紙とペンが必要だ。キチンと比較しないと即答なんて無理。。。

和食やフレンチなどのコースも同じ。ワインを何種類か飲んだときもそう。一番美味しかったのは何?質問に答えられない。細かく考えずに、テキトーに答えれば良いのに、答えられない。

そしてこうなる、「あれ、話、聞いてた?」って。「あ、うん、ごめん。考えてたの・・・」。こんなパターン。

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さて、このテキトーに答えられないのは、性格というのか、考え方の癖というのか、コミュニケーション力が無いというのか、そう自虐しつつも、「一番」をさっと答えるなんて、テキトーな思考だよな、感情的だよな、そして正しくないだろうな、非論理的、なんて心では揶揄している。。。

でも、今回、ふと思ったのだ。もしかしたら単に「味覚」がボクにはそこまで無いだけなのカモ、と。味やにおいを感じる舌と鼻の機能が弱い、だけかも。。。

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この親戚は、味を深く、細かく感じられる。だから、今日の中ではこれが本当に”一番”美味しかった、ということが比較でき、判断できる。10貫食べて、”すごく”おいしいと思ったのが数回しかない。感覚で、テキトーに言っているのではない。本当にわかっているのだ。今日のネタの味を比較できるし、過去の同じネタの味も記憶出来ていて呼び戻せる。

一方、ボクは味音痴というのか、味覚機能が弱いのだ。だから、なんでも美味しく感じてしまうし、差がわからない。記憶にも残らない。しかもこんなちゃんとしたお寿司屋さんだと、美味しいに違いない、という先入観も作用している。10貫が全て等しく「美味しい」という表現で、それで終わってしまう。。。

「一番はこのネタ!って単純に言えるなんて、思考力が無い、感覚的なひとだよな」というボクの考えは間違っていて、実はボク自身の問題で、味を細かく認識できないし、比較できないし、そして先入観にも騙されている。単なるチカラ不足。自分が答えられないことを自分の方がまるで賢いかのような思い上がり、つけあがり・・・。

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こういう、五感に代表されるような人間が感じるチカラ(あれ、五感以外にはないか・・・)が相対的に不足していると、言葉にできない。そして、言葉にできる人を見ては、感覚的だなぁ、なんて揶揄する。

一方、感覚が優れているひとは、即答できる。このネタが一番美味しかったよ、みたいに。そして答えられないひとを、どうして答えられないのかなぁ、なんて不思議に思う。

当然に感覚に個人差はある。それが大した差ではなく、思考力に左右しているなんて考えたことはなかった。が、影響しているのでしょうね。

寿司屋だけではなくて、職場でも感覚が教えてくれる結果に素直に従って判断するのでよいのかもしれません。ロジック・論理・屁理屈だけに縛られようとせずに。。。

ロジック・論理・屁理屈好きは(ボクみたいに)感覚が劣っているのでしょう。だからロジック頼りになっているだけ。。。そしてこのロジックも自分がそう思っているだけで、だいたい何かが抜け漏れて思考しているのだ。感覚も不十分、ロジック力も不十分。だから感覚派の感覚判断を馬鹿になんてできないのだ。反省・・・。感覚派の仲間の感覚的判断をもっと大切にしないと、そう思ったのでした。



読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_6)


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