見出し画像

言わずもガーナ_45_チャチくはないぜこのchurch①

おばちゃん「もしもし、起きてるかい」
ぼく「寝てます・・・」
おばちゃん「起きてるじゃないか! 教会の時間だよ」
ぼく「日曜の朝は『パワーパフガールズ』観るから・・・」
おばちゃん「もうとっくにプリキュアの時代になってるよ!」

という感じで日曜日の午前中は教会に連行されることが多い。

『おジャ魔女どれみ』のほうが先にはじまったのか、もうよく覚えていない。


今回と次回は、ガーナにおけるキリスト教とぼくについて書いてみようと思う。


説明したいこの四諦

ぼくは特になんの宗教を信じてるわけでもないが、いちおう仏教徒を公称している。
無宗教というとヤバいやつ扱いされるし、キリスト教とか口にすると毎週教会に連行されてしまう。

ぼくが神様に祈るのは、満員電車で急にお腹が痛くなったときくらいなのだけども。

(ある日の職場にて)

先生「その仏教ってのは何? どういう教えなの?」
ぼく「ええっと、まずさあ。生きることって『苦しみ』じゃん?」
先生「おん?」
ぼく「それってぼくたちの業--カルマ--が積み重なって輪廻--リンカーネーション--の円環に縛られてるからだよね」
先生「お、おう」
ぼく「その連鎖から抜け出る、つまり解脱--ニルヴァーナ--の状態に至ることが目標なわけ」
先生(こいつマジでやべえ・・・という顔)

ほんとに邪悪なものを見る目で見られた。

ガーナの学校にもいちおう「宗教」という科目はあるが、もっぱらキリスト教ないしイスラム教の知識教授が中心となる。
仏教の教義は彼らの理解が及ばないところにあるらしい。

おかげさまでSummer Day

ガーナでは国民の約7割がキリスト教を信仰しているといわれている。
おおまかには国土の南側・沿岸部にキリスト教徒が、北側・サバンナ地帯にイスラム教徒が分布している(もちろん都市部のほとんどでは両者が混在しているけれど)。
古くはサハラ砂漠を経由してイスラム教が、近世に入り海岸部に訪れるようになった西洋諸国によってキリスト教が、それぞれ広められた結果だと思う。

日常の語彙にも宗教の影響というのはたしかに感じられて、
「W'apɔw mu ɜ?(お元気ですか?」
「Nyame adom oo(神様のおかげで)」
という挨拶をかわすのが一般的である。

ファンティ語を教わっているときに、こんな会話もした。

ぼく「日本では隣人に感謝を表して『おかげさまで』って言うんだよ」
先生「なぜだ? その隣人はお前のために何かしてくれたのか?」
ぼく「特になんもしてくれてなくても、社交辞令で言うんだ」
先生「よく分からんが、神に感謝しろ。神のおかげでお前は健康なのだ」
ぼく「か、価値観~」

ぼくが元気にやっているのも、ひとえにこのブログを読んでくれてる皆さまのおかげであると心から感じるある夏の日。
ガーナは年中夏である。

敵視されるかTextbook

上の例のように、信心深い人がけっこう多いこのガーナ。
そんななかで歴史教科書の記述が問題となる事件も起きた。

ガーナの教科書は日本と同じく検定制で、出版社制作の教科書が文科省によるチェックを経て発行される。
そして今年、小学4年生の教科書に「キリスト教伝道による悪影響」という記載が見つかった。

(抄訳)
1. ガーナ、また世界各地において宗教は紛争を引き起こす原因のひとつになっている。
2. アフリカおよびガーナにおけるキリスト教は、人々を怠惰にしてしまい、人生をよくする現実的な方策から目を背けさせる。
3. 伝道師によって広められた教義は、人々を不安に、また臆病にさせることもあった。
4. 宗教を隠れ蓑に活動する詐欺師も出た。
5. ほとんどの宗教において、女性は差別される側である。
6. ガーナの政治家の多くが宗教を政治の道具にする。
7. ガーナの宗教は保守的で旧態依然としており、人々の創造力や批判的思考力を伸ばしはしない。

実際のところ教科書を個人で所有している小学生はあまり多くないので、実際の教育現場で物議をかもしたのかは微妙なところである。
一方でメディア・SNS上ではけっこうな炎上案件となり、検定を通した当局への批判が盛り上がった
(当局は「検定が申請された版からはこのページが削除されていた」と主張)。

教育と宗教の距離とか、信仰と批判的精神のバランスとか色々と考えさせられる事件である。
ガーナにおける宗教の立ち位置と日本におけるそれはまったく違う。
のでおジャ魔女とかプリキュアとか言って、あんまりふざけないほうがいいですね。

つづく。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?