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ballet-tombé

  あれは、2012年だったと思う、彼女のバレエ教室のオープンクラスに初めて行ったのは。

 教室は同年代の友人の学校で、家から徒歩8分のところにあった。教室は高槻と茨木にもあり、彼女はあっちもこっちも移動して教えていた。バレエ教室というと、とても豪華な雰囲気を想像するかもしれないが、家の近くのスタジオは広いが冬は寒く夏は暑い。更衣室など気の利いたものはなく、必要最低限の設備だった。

 はじめは土曜日の午前中に通い出したが、気がつくと平日の夜も含め週二日間通うようになっていた。一緒に習っているのは、ほぼ同世代の女性が三、四名に中学高校生と混ざって10名くらい。
 なぜ通うようになったのか?当時はフィットネスクラブでジャズダンスのレッスンに入っていた。ウォーミングアップで、パラレルのルルベパッセ、シェネの往復がありできない。友人のバレエ教室に通い出した動機は、元々はウォーミングアップができるようになりたいということだった。

 その後はなぜかバーレッスンが好きになっていった。バレエシューズは布の靴。殆ど厚みがないので、ダンスシューズを履いて踊る感覚とは全く違う。ジャンプなどしようものなら、着地の衝撃はかなりキツイ。脚ではなく足の使い方がとても重要だと言われる理由がわかった。基礎の動きはやってみると、どこをどう使えばいいのか、さっぱりわからない。友人のレッスンは、いつも音楽を変えて振り付けもその度に異なって冷や汗は出るものの、笑いもあり楽しく飽きることはなかった。

 発表会に出てみいひん?
 は?

 人前で何かしたのは、幼稚園の踊りか小学校の学芸会か。
ご指名は「ドンキホーテ」のジプシー達の役。普通のバレエシューズで踊れることもあり、やってみようかなと気楽に考えて、その他大勢で出ることになった。

し、か、し

 彼女は、バレエ団に所属してソリストとして、繰り返しさまざまな舞台に立ってきたバレリーナである。全ての音楽と振り付けが、頭の中に入っているので、ジプシーの踊りも思っていたよりもずっと難しい。何よりも数名で踊りを合わしたり移動するというのが、初めての経験で、私は仕方なく動きのドローイングを描いて覚えた。踊った後も舞台上で立っていないといけない。ドンキホーテの奇異な振る舞いに対して、狼狽える群衆の一員にならねばならなかった。友人のバレエ学校の方針は、、小さい子供から私のような不埒な大人まで、とにかく全員で舞台を作る。年齢差があることが、普段の美術作品の展覧会とは全く違って、新鮮だった。小学生の子供達に教えてもらうことは悪くない。いつもの作家の顔は自然と外れていく。

 私の親は、芸事は三歳からと言い、才能は見てとれず、バレエは親の骨格で決まってくるからやめておけということで、舞台ものは憧れに過ぎなかったし、自分でもある時から無理だと思っていた。運動もそうである。私にとっては学芸会以来の35年ぶりの大事件であった。

 80年代は、コンテンポラリーダンスや舞踏が花開いた時代で、私も大掛かりなインスタレーションの作品を作っていると、なんと「白虎社」さんや「維新派」さんから、舞台を一緒にしないかと、お声がかかったことがあった。当時は、画廊の展覧会に舞踏やダンス関係者も見に来ていた。         しかし、その二つの手強い舞踏団と舞台装置の設計をすることは、私には無理だとお断りした覚えがある。共同体というわけではなく、強力なリーダーの夢を叶えるために対等になることなど、敵わないことは自明であったからだ。

 しかし、アングラ系を含めて現代物を見ていた私が、書き割りの風車の前でドンキホーテが右に動けば吹っ飛ばされそうなところを踏ん張り、マイムもどきの芝居の動きをするわけである。ふとしたきっかけで自分の飾りにしていた「現代」って簡単に変えることができるのだ。あるいは私に信念がないからか。
  彼女の発表会では、どの練習生も全身全霊を捧げて踊る。
幕の袖で酸素吸入をして舞台へ飛び出していく彼女達の強さと情熱、必死の想い。その場に立ち会っていること自体だけで、胸がドキドキする。踊り手の呼吸が聞こえることが、何より楽しかった。

 その年は、龍野アートフェスティバルに参加することになっていて、春先から映像作品のロケが始まっていた。本格的になったのは、発表会が済んでからだったが、今から考えてもその二つをどうやって同居させていたのか、自分でもわからない。撮影ロケの方が数倍も大変だったからか。
この頃は、3年前のロケ中落下事故から充分治った身体だったし、柔らかく体脂肪も絞れていたので、梁の上に乗っかることができていた。

 ジプシーと「HEIDI53ーecho」、「HEIDI53-none」

 使われなくなった龍野の醤油蔵を彷徨ったり、楽器を鳴らしたりと、どこかこの街の住人ではない人物と化していたHEIDI53の作品。ジプシーが決して永住することができない由緒ある町、龍野。廃屋に忍び込み、真夏の中で寝転んでいる私の撮影現場を見て、フェスティバルを運営されている方々は、最初意味がわからなかったと、後に話してくださった。
https://vimeo.com/131958787 

 バレエの発表会も撮影も汗まみれで、衣装やメイク道具も自分で運び、タオルケットを敷いてストレッチ休憩する。あぐらをかいて弁当を食べ、ずれたまつ毛を直す。
 私にとって、当時の現場はどこも同じだった。

©️松井智惠              2024年5月16日筆




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