幸せに生きるために手放すべき意識
先日、信頼するヒーラーさんの施術を受けにいった時のこと。
なんともなしに「断乳したいんだけど、なかなかできなくて」という話をすると、彼女は「罪悪感を手放してね」とわたしに伝えた。
この彼女の言葉は、わたしのとって、とても大きな気づきだった。
今日は、「罪悪感を手放す」ということについての、そのヒーラーさんとの会話をまとめていこうと思います。
罪悪感は諸刃の剣
罪悪感は、さまざまに感じる感情たちの中で一番タチが悪く、厄介な感情かもしれない。なぜなら、罪悪感の感情は、自分だけではなく、他人も傷つけて、すべてをがんじがらめにしてしまうから。
誤解してほしくないのは、必要がない感情というのは存在しないということ。それが怒りや不安や悲しみや妬みであったとしても、それらの感情が「悪」であるわけではない。感情というのは、私たちが気づいていない潜在意識からのメッセージを伝えてくれている。言ってみれば、感情は「魂の言葉」なのだ。それは、「罪悪感」という感情も変わらない。
でも、何事にもバランスというものが必要で。
適度な「罪悪感」や「恥」の感情は、私たちがこの世界で生きていく上で必要なメッセージや気づきを私たちに与えてくれる(社会の一員として生きる上で、○○な行動はしないんだなあ」と言った気づき)
でも、わたしがこの記事で書いている「罪悪感」は、バランスを崩してしまっている感情の表れ方。だから、自分(そして他人)の魂の成長を妨げてしまうような、そんな働きをすることが多い。
魂の成長を妨げる「罪悪感」の表れ方
バランスを崩した、魂の成長を妨げる「罪悪感」の表れ方。それは、特に家族関係やパートナーシップ、身近な人との関係性の中で顕著に表れることが多いみたい(少なくても、わたしの場合はね。)
例えば、こんな感情たち。
こんな思考や感情、そして行動パターン。
この記事を読んでいるあなたにも、思い当たること、共感できることがあったんじゃないかな?
このような関係性のことを「共依存」って言ったりするんだけど、この「共依存」と「罪悪感」はとても深く結びついている。
共依存、罪悪感、そして「境界線」
「罪悪感」という感情のバランスが崩れているとき、わたしたちは共依存的な関係性で人と繋がりやすくなってしまう。そして、それは適切な境界線(healthy boundary)を人との関係性の中で引くことへの恐れにつながっていく。
「NO」と言うことができない。
自分が本当にしたいと思っていることに関して、なかなか一歩を踏み出すことができない。(行動しようとすると、いつも誰かに引っ張られるような、ブレーキとアクセルを一緒に踏んでいるような、そんな感覚がある)
「相手のため」と思って、自分の本当の想いを見ないフリする。
「本当は一人暮らしをしたいけど、そうしようとするとママが『あなたは、わたしを捨てるのね』『今まで手塩にかけて育ててきたのに』『どうせ、あなたも、わたしから奪うだけ奪って去っていくんでしょ』『もういいわよ。あなたは勝手に一人で生きていったらいいじゃない。わたしのことなんて気にしないで』って言って怒るの。そんな風に言われたら、出ていくこともできないじゃない。だから、結局ずるずる、ずっとママと暮らしてるの」
そんなストーリー。
特に母娘関係で、多いんじゃないかな?
「わたしのため」に行動することが、全世界のためになる
この「罪悪感」、そして共依存のループから抜け出す方法。
それは、「自分のため」に行動することが、相手のため、ひいては全世界のためになると確信すること。根拠のない自信でいいから、その自信を持って、堂々と行動し続けること。
「罪悪感」は、何度も現れ出てくるでしょう。最初の方は特に。
でも、それはあなたが人生の中で知らずに身につけてしまった「思考のクセ」だから。「あ、また罪悪感のクセが出てるなー」って、気づいてあげて、そして「大丈夫。わたしがわたしの人生を全力で生きることで、それが相手の自立と幸せにも繋がるんだ!」と自信を持つこと。何度でも、自分にその言葉をかけてあげること。
だって、特に共依存的な関係の中では、いつまでも相手に優しくしすぎていたら、結局相手は成長することができないの。あなたの優しすぎる優しさが、一周回って相手の魂の成長や癒しを止めてしまっているのかもしれない。
どちらかが自立をすることで、相手の人も自分でなんとかしないといけない立場に追いやられる(それは、優しい「気づき」として)。そして、依存して寄りかかる人がいなくなるからこそ、自分のことを省みて、自立していけるようになっていくんだよね。
だからこそ、「罪悪感」を手放して、本当に自分の魂が求めること、喜ぶことを実行していくこと。その時に「これは自分だけのためじゃなくて、みんなのため!」って自信と確信を持つことが大切♡それが、自分のためでもあるし、相手のためでもあるのです。そんな自立した(魂がヘルシーな)人が増えていったら、この世界はもっともっといい場所になるよね?(少なくても、共依存メーカーは減っていく)。だから、最終的には「世界のため」になっていくのです。
「自分を大切にする」ことと「自己中心的になる」ことの違い
ここで誤解してほしくないのが、「相手のことは完全放置で好き勝手ワガママに行動していい」って言ってるわけじゃないってことね。
あなたの「相手のための行動」が、「恐れ」をベースにしているのか、はたまた「愛」をベースにしているのか。シンプルに説明しようとすると、結局、そこに辿り着く。
例えば、分かりやすいので、子育てを例に説明してみます。
親として、本当に子どもを愛していて、子どもの自立を願うのであれば。
わがまま全部を聞いてあげて、欲しいものは全部あげて、1から100までぜーんぶ子どもの言いなりになってあげることは、「本当の意味での愛情」ではないと、分かるはず。
かといって、子どもの気持ちには一切寄り添わないし、「わたしの気持ちが大切だから、あなたの気持ちは二の次よ!」「あなたが自立できるように、厳しくしたり、あえて突き放してるんだよ!」ってネグレクトするのは、「適切な愛情表現」ではないよね。
大切なのは、そのバランス。「境界線」。どこで線を引くのかということ。
「愛情表現」ではなくて、「罪悪感」を感じることが嫌だから、子どもの言いなりになっているんじゃないかな?
子どもを「自立させるため」ではなくて、自分本位、エゴ中心になっているから、子どもに線引きをしてしまっているんじゃないかな?
その思考・言葉・行動の根底にあるのは、「愛」と「恐れ」どっちだろう?
いつも、何度でも、自分自身に問いかけてあげたい、大切な質問。
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