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「先生」の崩壊とこれからの時代の新しい師弟関係の形

私は、京都の奥座敷、レイキ発祥の地でもある霊山、鞍馬山で「伝統靈氣道」の伝授(アチューメント)をしています。いわゆる「レイキの先生」です。さらに、今までセルフヒーリングの講座などを開催して教える立場もさせていただいていました。

でも、実は私は「先生」にはなりたくない、と活動を始めた当初から思っていました。「先生」と呼ばれることに、いつもある種の寂しさや居心地の悪さを感じていたのです。


今日はタイトルの通り、これからの時代の新しい師弟関係について、徒然に書いていきたいと思います。



これからの時代のあたらしい師弟関係の形

あえて結論から書いていこうと思います。

これからの時代、「先生」や「マスター」という概念は崩壊していくと思っています。なぜ?という疑問については、後ほど考察していきます。

では、「先生」や「マスター」という概念が崩壊した後の、これからの時代のあたらしい師弟関係とは、どういったものになっていくのでしょうか?

それは、とてもシンプルに言ってしまえば、

「お互いに未完全な存在として、
完全に対等な立場で
情報交換をし合う間柄」

になっていくのだと思います。


登山を例えにして説明してみます。

今までの師弟関係では、「先生」がまずは自分の師に教わり、導いてもらいながら、険しい山を山頂まで登っていくところから始まります。そこまでは、基本的にはとても孤独な旅です。
さまざまな困難や試練を乗り越えながら、やっと山頂に到着します。そこではじめて「先生」と名乗ることができるようになるのです。

そして、今度は自分自身は山頂に座ったまま、過去の自分と同じように、険しい山を登ってこようとする人たち(これが、その人の「弟子」や「教え子」となります)を導いていきます。


しかし、これからの時代の師弟関係は、「山頂を目指して険しい山を登る」行為自体は同じですが、形としてはまったく異なります。

ひとりで険しい山を登るのではなく、みんなで一緒に登っていくのです。「先生」は、後ろから着いてくる人の数歩先を歩いているだけでいい。時には、隣に並びあって、互いに鼓舞しあいながら山頂を目指していきます。

例えば、「私」は山道を歩くことが得意。だから、どこに足を置いたら登りやすいなど、アドバイスしやすい。でも、一緒に登っているAさんは、野草に詳しくて、登山しながらみんなの食事用の野草を集めてくれるかもしれない。Bさんは、お料理が得意なので、Aさんが集めた野草でおいしいご飯を作ってくれる。そして今までであれば「先生」と呼ばれる立場にある「私」自身も、AさんやBさんから自分が知らない知識を教えてもらったり、苦手なことはお手伝いをしてもらう。

これからの時代は、師弟関係という固定された上下関係ではなく、フラットに、平等に、それぞれの不完全さを補完しあい、教えあい、支え合う関係性へと移行していくのだと感じています。友情の延長線上ともいえるかもしれません。


「先生」と呼ばれることに違和感を覚える理由

なぜ私が昔から「先生」や「マスター」と呼ばれることに苦手意識があるのか。

そもそも、私はまだ20代。他の先輩方に比べたら、まだ若輩者です。人としても、まだまだ器を広げているプロセスの途中。しかし、私から靈氣を受けとってくださったり、講座を受けてくださる方々は、私よりも一回りも二回りも年上の方が多いのです。

そんな方々に、「先生」と呼ばれることに対して、違和感や居心地の悪さを感じるのは、当然といえば当然ではないでしょうか。例えば、私の生徒さんには、鍼灸の先生もいらっしゃれば、書道家として国内外で活動されていらっしゃる方などもいらっしゃいます。みんな、それぞれの分野において「先生」なのです。

そして、いわゆる「先生」としての肩書きをもっていらっしゃない方々も、人生という道において、私にとっては先輩です。本来、「先生」という言葉は、「先を生きてきた人」という意味をもっているのだと、小学校の頃に教えてもらったことを今も覚えています。そういう意味で、私よりも人生を長く生きていらっしゃる方は、みんな私にとっては「先生」であると言えます。

では、私が後30年、40年と歳をとっていったら、「先生」と呼ばれることへの違和感は払拭されるのでしょうか?実際のところは、そのときになってみないと分からないけれど、多分、「先生」という言葉への違和感は払拭されることはないだろうな、と思います。

多分、私はシンプルに、「先輩・後輩」とか「先生・教え子」といった概念が好きではないのです。

なぜなら、そもそも「先輩」とか「先生」という言葉には、「自分よりも目上の人である」という意味が含まれています。どうしても、上下関係というものが発生してしまうのです

そして、これからは水瓶座の時代。水瓶座は上下関係や伝統への固執といったものを嫌います。博愛、平等、自由が水瓶座のキーワードです。そして、私自身、水瓶座要素が強いので、そういった理由もあって「先輩・後輩」とか「先生・教え子」という固定された序列的なものが嫌いなのかもしれません。


「先生」という言葉がもつ呪縛

さらに、「先生」という言葉には、二方向の呪縛があると感じています。

「生徒」に対する呪縛

まずは、「生徒」たちに対する呪縛です。
「先生」に教えを乞うということは、関係性の中において、下座に自らを置くことになります。これは、「自分自身は不完全である」「自分はまだまだだ」「自分は劣っている」という歪曲した劣等感を生み出す可能性をもっています。

「生徒」であるその人自身にも、さまざまな可能性や強みがあるかもしれないのに、それを「自分はまだ先生にはなれないから」と押しつぶしてしまうことにもなりかねないと思うのです。言い換えれば、過度な謙虚さや、目上の人に対しての無意識レベルでの遠慮や媚び、です。

私は京都で生まれ育っているので、特にこれは無意識レベルで気づいたらやってしまっていたことでもあります。謙虚であることや「自分はまだまだ学ぶことがある」と思うのは別にいいのです。でも、それが行きすぎてしまうと「先生」からの言葉に違和感や「ん?」と思うことがあったとしても指摘できなかったり、「いや、自分が間違っているに違いない」とか「いや、ここは相手を建てないといけないよね」といったように、自分の直感や感覚を飲み込んでしまう行為になりやすくなります。

つまり、従来の師弟関係において「生徒」は、自分ではない誰かを盲目的に崇拝して、その人が言うことこそが真実である、と受けとってしまうパターンに陥りやすいということです。これは、悪い言い方をしてしまえば、洗脳になってしまうことも、往々にしてあります。

しかし、noteでも最近よく書いていますが、そもそも「完璧」な人間など存在しません。誰しも、「その人にとっての正しさ」の中で生きているのであって、何十億という人類すべてに適応するたったひとつの普遍的かつ絶対的な正しさ(もしくは「道」と言い換えてもいいかもしれません)は存在しないのかもしれません。

この辺りについては、以下の記事で書いているので、ご興味のある方はどうぞ。


「先生」に対する呪縛

「先生」や「マスター」といった概念は、「先生」自身に対しても呪縛となりえます。

まず、「生徒」が自分を盲目的に崇拝してくるようになった場合、「自分は間違えてはいけない」「自分は完璧でいなければ」といった、かなりの重量のプレッシャーを背負うことになります。

「先生」や「マスター」には、「完璧な存在であってほしい」とか「完璧な存在であるはずだ」という集合的無意識の期待がふりかかります。そして、少しでも不完全な要素や、自分にとって納得できない "人間臭さ" が垣間見えると、「失望した」「ガッカリだわ」と言って離れていかれたりもします。芸能人でも同じですよね。

陰と陽…
自然は常にそのはざまをゆらめいて調和を保とうとする

嵐も地震も、雨も風も雪も、自然が調和を保とうとするあらわれだ

だが自然は決して調和されることはない

ゆらめきこそが自然だからだ。

「水は流れて水となり」
「風は吹いて風となる」
そしてまた「人はゆらいで人となる」

『イティハーサ』

私が好きな『イティハーサ』という漫画からの引用です。

人はそもそも不完全な存在である

頭では分かっていても、集合的無意識レベルでの期待ですから、自分もその集合的無意識に巻き込まれて、気づけば「完璧」という幻に向かって踊らされたり、「完璧」を演じようとしたり、「完璧」ではない自分に失望したりしてしまうのです。

これが、「先生」にとってのひとつ目の呪縛。

そして、「先生」という上座に座っているという立場や「完璧であらねばならない」というプレッシャーは、「生徒」に対しても無意識に完璧さを求めるという形で吹き出すことがあります。これが「先生」にとっての二つ目の呪縛です。


自分自身が通ってきた道を歩んでほしい。
その道こそが正しい道である。


本当はそうではないことは、分かっている。でも「先生」という立ち位置が、思考を鈍らせたり、目を曇らせたりしてしまうこともあるのです。

自分にとっては「生徒」への純粋な愛情のつもりが、相手のこころに土足で踏み込んで傷つけていたり、無意識に相手を下にみたり、自分の意見の押し付けとなってしまっていたり、「生徒」を自分の物差しに押し込めてジャッジしてしまったり。いわゆるスピハラ(スピリチュアル・ハラスメント)ってやつですね。私自身、やられたこともあるし、やってしまっていたこともあります。(その節は、本当にごめんなさい)


本来、いろんな道があっていいのです。いろんなやり方や生き方があっていい。どの登山口から登ろうとも、上を目指していれば、誰しも必ず(途中で死んだりしなければ)頂上に到達できます。近道とか遠回りとか、疲れにくい道や危険な道とか、色んな道はあるけれど、別にどれが正解でどれが間違いとかはないのです。(そもそも頂上に到達する前に死んだとしても、それすらも生まれる前に決めてきていたりするのです。もっと言えば、頂上を目指したいかどうかさえ、その人次第)

この考え方は、伝統靈氣道の教えに通じるところでもあります。
レイキには、一応の型はあります。でも、絶対ではない。

水のように、その都度の状況に合わせて
姿形を変えていっていい。

そして、自分の意志を介入させない。

人は、この宇宙に存在する、
すべての「魂」の自由意志を奪ってはいけないのです。


「それは遠回りだよ」
「それは間違ってるよ」
「こうすれば楽になるよ」

自分が通ってきた道だからこそ、わかることもあるし、見えすぎてしまうほどに見えてしまうこともある。でも、その苦しみに突っ込んでいく経験こそ、その人の魂が望んでいることかもしれない。正解なんて、誰にも分からない。だから、相手から頼まれたとき以外は、勝手に相手に介入しない。意見をいうときも、「あくまでも、これは自分の考え方であって、絶対的な正解ではない」というのが、靈氣の基本的なスタンスです。

子育てでも、同じですよね。
相手の生命を信頼して、委ねる。手を離す。見守る。助けを求められたら、求められた分だけの助けを与える。

言葉にするとシンプルだけど、結構難しいです。
「先生」になったって、弱点だってあるし、悪い部分ももってるし、エゴだってあるからね。


自分より「上」に誰かを置くことは、自分の魂に対する侮辱

これは、私が高校生くらいの頃に尊敬していた、とある方がブログに綴っていた言葉です。

そこから何年も経ち、自分より上に「神」を置いてみたり、「人」を置いてみたり、「教え」を置いたりしてみました。意識的なときもあれば、無意識のときもありました。でも、そうやってなにかを(それが人であっても神であっても)自分の上に置くことは、自分自身の生命に対する責任を投げ出すことでもあるんだな、ということにも気付かされました。

このことについては、2022年後半に高次元と繋がって、色々な存在と問答したり、感じていたときに気づいたことでもあります。気になる方は、ぜひ以下の画像をタッチして公式LINEから「2023年言霊降ろし」を受けとってみてください。60ページ越えのPDFとなっています。

https://lin.ee/U033NWK


ただし、「自分より上に何者をも置くな」というのは、私自身の人生の中での体験であり、学びです。私の魂が体験したいと望んでいることや私の使命にも通じています。だから、この考え方すらも「正解」ではないです。

人によっては、自分の「上」になにかを置いて、その道を貫き通すことを魂が望んで生まれてきているかもしれません。だから、感じ方は人それぞれでいいと思っています。これは、"現時点" での "私" の答えに過ぎないから。


そもそもなぜ、「先生」は崩壊するのか

そもそもなぜ「先生」は崩壊するのか。
ここまでは、人によっては、ただの私の感情論のように見えたかもしれません。でも、ちゃんとした理屈もあるのです。

先ほどもサラっと書きましたが、これからの約25年間は、「水瓶座の時代」に入ります。水瓶座時代とは、水瓶座の要素が色濃く現れる時代が続くということです。

【水瓶座のキーワード】
人道主義者 / 進歩的 / 独創的 / 誠実 / 偏見がない / ユニーク / 独立心 / 自由奔放 / 発明の才能 / 科学的 / 論理的 / 理想主義 / 普遍的 / 博愛精神 / 抽象的なものへの理解 / 伝統にとらわれない / 友好的 / クール / 独自の価値観を持つ / 反骨精神

https://astroquest77.com/sinnrisennseizyutu-mizugame-kihon01.html

12星座は、魂の成長プロセスを表しているといいます。水瓶座は、最後から2番目です。俯瞰的な視野でもって、世界をみているサインです。そして、サインは、1個前のサインに強く反発して、その反骨精神で成長していこうとする特徴があります。

水瓶座の1個前のサインは、山羊座です。山羊座には、以下のようなキーワードがあります。

【山羊座のキーワード】
真面目 / 冷静沈着 / 仕事熱心 / 義務に忠実 / 規律正しい / 社会性がある /
集中力 / 責任感 / 思索的 / システマティック / 伝統を重んじる / 忍耐強い / / 根気がある / 孤独に強い / 自他ともに厳しい / 苦労性 / 権威的 / 他者に要求が多い / 伝統に固執する

https://astroquest77.com/sinnrisennseizyutu-yagi-kihon01.html

つまり、水瓶座時代とは、上記の山羊座的要素に強く反発して、その反骨精神で水瓶座的な要素を広め、深めていこうとする時期なのです。

山羊座には「規律」以外にも「上下関係」「序列」といったキーワードが当てはめられることもあります。だからこそ、これからの時代は「先生・生徒」や「先輩・後輩」といった序列が崩壊していく流れになると予想できるのです。


後、単純に考えて、一人ひとりが個別に頑張って登頂に到着して、そこで初めて人に教え始めていたら、時間がいくらあっても足りません。何年かかるねんって話です。

それだったら、みんなで一緒に、そこまでの道すがら学んできたことを教えあい、それぞれに足りない部分は補完しあい、つらい時に支え合い、転びそうになったり怪我をしたら助け合い、諦めそうになったら励まし合って、みんなで一緒に登っていった方が、効率がいいし、早いんじゃない?って思ったりします。

「完璧」な個人を増やすことを考えるのではなく、不完全な個人が集まったときに全体的にみて調和やバランスがとれ、全体性の中での「完璧」に近づけていれば、それでいいのではないでしょうか?それが、自然界のあるがままの姿だったりもするのだから。


終わりに

「先生」という立場は、とても孤独です。だから、私は「先生」と呼ばれることは好きじゃない(リスペクトなく、なめた態度とられるのも嫌いだけど。笑)そして「先生」を振りかざす人も、ハッキリ言って、好きじゃないです。(水瓶座要素が強いんだよ、ごめんね)

「『先生』になんて、なりたくねぇよ」って思うし、「『先生』を求めてくるなよ」って思ったりする。だから、私は自分の闇も、不完全さも、醜さも、迷いも、葛藤も、意識的に出し続けていました。「完璧」なんて幻影を追いかけて、存在しない幻と自分を比較して、自己否定の渦に入って立ち止まってほしくないから。

それを、私自身がもつ弱さや未熟さだと受けとって、無意識にマウントをとってくる「先生」や「先輩」たちもたくさんいました。正直、毎回とても深く傷ついてきました。でも、「その矛盾や葛藤を抱えながら生きている人だからこそ、信頼できた」「闇を持ちながら、それを隠さずに生きているからこそ、あなたから教えてほしいと思った」といって、日本各地にとどまらず、はるか遠く南半球や東南アジアから、飛行機に乗って鞍馬まで会いにきてくれたり、講座を受けてくれた人たちがいました。

そして、みんなとの時間は、いつも私にとってのプレゼントでもありました。お互いに、いろんなことを話し合う。思ったことを伝え合う。私自身がアドバイスや意見をもらったこともたくさんあった。お互いが持っているモノを出し合ったら、パズルのピースが揃って答え合わせになったりした。

それは、全部、私にとっては財産です。

そして、私自身は、「先生」と「生徒」じゃなくて、得意なことを教え合いっこするフラットな関係性がいいなぁって思っています。馴れ合いとかじゃなく、ね。そして、これからの時代、どんどんそういう循環型の関係性になっていく。そう確信しています。

最後に、私の古い友人の歌を置いておきます。


「先生」として、「生徒」として、息苦しさを感じている人が、ホッと肩の力を抜ける、そんなきっかけになれば嬉しいです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます! 「参考になった」「学びや気づきがあった」など感じていただけましたら、「スキ」ボタンで教えていただけると嬉しいです。