続・くだらない

“湖の見えるタンポポ丘の桜の木の下で
手頃なヒモと手頃な台を都合よく見つけた
半分ジョークでセッティングしてそこに立ってみた時マンガみたいな量の涙が溢れてきた”


敬愛する藤原基央が歌う歌詞。
私は実際このタンポポ丘に足を運んだ事がある。
そこに紐や台なんて転がってはいなかった。

歌詞なんてどこまでがフィクションでノンフィクションなのかは聴き手には不透明だ。
ただ昔は自殺の名所と呼ばれていたらしいその公園に当時手頃なものが転がっていても不思議ではないのだろうと想像する。
そこで冗談半分の行為に移った彼の心情はどういうものだったのだろうか。

情景は違えど昔転がっていた手頃なベルトをセッティングし体重をかけてみた事がある。
ただ苦しみもがき咽び泣くだけでタンポポの綿毛なんて見えなかったしこの手が右上で弧を描く事もなかった。

吐き気を飲み込み宙に浮いた体をゆっくりと下ろし虚空を見つめる。

地に足が着く余裕さなど甘過ぎた。
今になっても後悔する。
その甘さや脆さを剥ぎ取っていれば今頃は、とたらればを並べては当時の勇気にも賞賛している。

そんな勇気なら無い方が良かった

と歌う人もいれば

終わらせる勇気があるなら続きを選ぶ恐怖にも勝てる

と歌う人もいる。
全然綺麗事だ。
その綺麗事の美しさも知っている。


彼はタンポポ丘で私には見れなかった光景を、未来や希望といったキラキラとしたものを、その目に焼き付けた。

私にもこの目が視力を失う前にそんな曖昧で糞ったれな美しいものを捉える事はできるだろうか。
白濁したこの目にタンポポの綿毛はいくつ見送れるだろうか。


あの頃と違うのは髭の生えた顔
ではなくピアスで穴だらけになった顔くらい。




文章の練習で始めたnote、暗いことしか書いてない。
好きな音楽を語るにも暗さが全面に押し出されている。
暗い人間だから仕方ない。
こんな暗い人間が最近心を動かされたのは湊かなえのカケラを読み終えた時。
ドーナツに囲まれて自殺した少女、なんて最初から引き込まれるものがあり衝動買いしたが結末に胸を打たれた。
最近は忙しさを言い訳に全く本を読めていないが積読書はまだある。
次は絶歌を読み犯罪心理に踏み入れる。
サスペンスやミステリーには高揚するものがある。


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