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SNS?どこにも居場所がない私。

「明日、突然自分が死んでも心配してくれる人はいるのだろうか」私には居場所がない。どこに行っても居場所がない。多くの人は社会人になって一人暮らしをして恋人もいなければ私と同じ孤独地獄なんだろうなと思った。


インターネットが発達して誰でもSNSが使えるようになった。Twitterがあれば趣味や思考が近い人と繋がれて交友関係が持てるし、Instagramがあれば自分が「こうありたい」と思える自分を演出できる。

そしてTiktokは簡単に自分の姿を多くの人に見てもらえるのでフォロワーが増えやすい。私たちはいいねとフォロワーの数に満たされながら生きているのだ。常に自分の肯定感にも繋がっているし、今やSNSかお金に変わる時代。

多くのいいねとフォロワーを集めれば自分は有名になれる上に大金を獲得できる可能性だってある。

私もSNSの広告やYouTubeでそういった発言をする人たちが増えてきたのを見て「これからはSNSの時代」と思い、SNSに関する本や動画を沢山見て勉強した。「モテたい」という欲求を根源にインフルエンサーになったゆうこすの本を読んで研究したつもりだ。

それからたまに自撮りを載せたり多くの人に読まれそうな情報発信をしたりしてみた。でも現実は上手くいかなった。私が自撮りを乗せたとしても増えるのはよく分からないおじさんだったり、得体の知れないエロ垢だったりした。

本当に自分のことを内面から興味を持ってくれる人なんて全くいない。少し露出の多い画像をアップすればリアクションはあっても見る側からすれば露出画像は他にいくらでもあるので別に自分自身に価値がある訳でもない。

かといって過激な画像や映像で直接お金を巻き上げてやろうという気も起きなかった。反対に情報発信に特化しても既に発信している人がいたり、みんな知っている情報しかなかったりするのでこれも難しい。

いいねが付きやすいお得な情報を並べたとしてもみんなは情報だけ持っていって自分自身には興味ないのが伝わってきて辛かった。さらに言えば、情報発信をするとみんなのお問い合わせセンター的な立ち位置に置かれる。

「それは公式サイトで情報を確認した方がいいんじゃない?」ということや「検索したら分かることでしょ」というようなことをよく聞かれた。そんな毎日を繰り返しているうちに気がついたのは自分は居場所がないということだった。


掲示板時代からあるインターネットは居場所を提供してくれると思ってた。趣味や興味が多様化して、リアルの人間関係が希薄になっている時代に気の合う友だちを見つけるのに最適なツールだって散々言い聞かされてきて信じてきた。

だけども現実は甘くなかった。SNSの世界にも社交辞令があっていいね回りやコメント返しをしないといけない。それがあってようやく「繋がる」という段階になれる。リアルの世界にのように距離感があって一気に仲良くななれる訳ではない。

しかもいいねが貰えるだろうと思って投稿したのに全くいいねがつかなかったことや、エンゲージメントを見たらリンクや画像を見て欲しかったのにとりあえずいいねだけつけて社交辞令している人が異常なほど多い。


じゃあ現実世界はどうなのかと言えば、人間関係は希薄だ。別に友達がいないという訳ではないけどいつもべったりくっついている訳でもない。学生時代に仲良かった友達は休日が違ったり予定の都合が合わなかったりするから特に会ってない。

中には結婚をした子もいるからこちらから連絡するのは邪魔してるようで気が引ける。家族に相談しようとしてもSNSなんてわかってないし、なんなら使い方をレクチャーしないといけないから相談相手としても機能しない。

兄弟に相談するのはなんだか気恥しいしバカにされるに決まってる。会社の同僚はそこまで腹を割って話せるような関係でもない。やっぱりビジネスの場で会った人とは学生時代のようにフラットな関係で仲良くなれない。

結局SNSの悩みはSNSの中で解決するしかないらしい。


特に自分の居場所について相談できる居場所がないまま、私はひとりで抱え込んでる。毎夜毎晩考え込まないようにしてるけどたまに思い出して悲しくなる。時々真夜中に「今の」自分を認めてもらいたくて泣きたくなってしまう。

昔から自分を知ってる家族じゃなく、あの頃の思い出を共有した昔の友達でもない。今の自分をフラットに見てくれる存在。自分に関心を抱いて見守ってくれる人がいればそれでいいのに。胸がはち切れそうになってきた。

そして真夜中にそっと目を閉じて泣きながら寝落ちしてしまった。

目を覚まして起きればもう昼過ぎ。お腹が減ったのに自分の家には食材がない。残り物でも何も作れない状態だ。仕方がないから近所のレストランで食事をすることにした。家から外に出て歩いてみる。

いつもの街で少しお腹が空いた時にはファミレスに入って適当にご飯を食べるのだが、今日は近くの古い大衆食堂が目に入った。引き寄せられるように今日はこっちに入ってみようと思い入店し。

店内は閉店ギリギリだったらしくお店をやっている老夫婦の2人が「お客さん、よかったね。今日はお客さんが少ないからあと5分遅かったら閉めていたよ」と柔らかな笑顔で迎えてくれた。

それから老夫婦は私の職業や生活のことについて世間話程度に聞いてきた。最近ではそういったことをリアルの世界でするとキモがられる世界。だけども少し悩んでる私にとって自分に興味を持ってくれた人が現れたようで思わず色々なことを喋ってしまった。

そこで気づいた。私はSNSで仲良くする人を自分と同じ興味や属性から入って選んでいた。自分と違う人はすぐに仕分けして関係を切っていた。ある種の偏見だ。でも老夫婦から見て私は年齢も趣味や思考も当然違う。それでも老夫婦は偏見なく私に話しかけてくれる。

ひょっとしたら私に足りなかったのは、年齢や考え方も違う人に交流して心を開こうとする気持ちだったのじゃないか。自分に興味のベクトルを向けられてないとしたらすぐに関係を切っていた。

もっと寛容な心があれば交流の形は変わっていたかもしれない。海外旅先で偶然、年齢も出身も人種も違う人と仲良くなるのと似た感覚だ。

あれはSNSのようにスクリーニングしてる訳ではなく、互いに興味を持ち合いリスペクトしてるからこそ仲良くなれた。自分に足りなかった何かを教えてくれた気がした。


そして、この街にはファミレスがあってこの大衆食堂は正直惹き付けられるものがない。店の場所も分かりにくいし外観もオシャレじゃない。

でもこの街で根を張ってまだ営業してられるのはファミレスで得られられない何かを求めてこの店に来る人のためにあるんだろう。

きっと人間関係や居場所も、スーパースターやインフルエンサーではなくて、私だからこそ何か他の人の力になって繋がれる希望があるのかもしれない。