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歳を重ねて学びも変わる?

ずっと生きる知恵を心理学界隈で得てきた私が今面白いなと感じている新しい学び先がある、それは仏教!ブッダの教え!

正直宗教には詳しくないし、そもそも宗教と聞くとちょっと…と感じてしまう「何か」も否めないけど、ふとひょんなことからNHK出版の学びのきほんシリーズ『ブッダが教える愉快な生き方(著書:藤田一照)』を手に取ってみてからどこか親しみやすいものを感じられ、自分の生活にも取り入れられそうな教えがあるなぁと率直に感じたのだ。

仏様の教え、と聞くと凡の極みのような自分には到底…と思えるんだけども、実際にちょこっと紐解いてみただけでも「そういう事ではない」というのが伝わってくる。その後気になった『今あるものに気づきなさい(著者:加藤朝胤)』を読んでみたところ、ますます関心がわいてきた。


今までは、たとえばこのモヤモヤはどう晴らすのか、この気持ちの表現の仕方を模索していた感じがする。(ラベリングのような、気づきのような、ファジーでアンクリアなものが本などによる知識により概念や名前などを与えられ、ゼロから1になることでよりはっきりと浮かび上がり受け止められる感じ)

今の環境がそうさせるのか分からないが、最近の自分の感情へのアプローチはどこか俯瞰的というか、その状態に名前を当てるというイメージより、それそのものを受け止める、流れるがままにする、といった印象が強い。それはそのものを見据え、痛みや苦みを含めた感情そのものを受け止めて流す、…許す?といったような感覚。個人的にはこのプロセスがとても仏教の教えのあり方の感じに似ているような気がしてならない。問題解決の方法を探す、というよりももっと根本にある自分の気持ちそのものを認める、許す。。という感覚。

そもそも問題の質が異なるのか?と思ったけど感情に甲乙もないし、表現が出来るようになってきたから?と思ったけどそれもどうやら違う気がする。ただ自分自身をよりそのまま、丸ごと、積極的な諦めも含めて、見つめられるようになってきたのかな、と。年とともに丸くなる、という表現に近いようなイメージ。

生きる、ということをより身近に考えるようになったから?とか。

点と点が結ばれ面になってきて俯瞰できるようになってきたのかな、とか。

良くも悪くも身の丈が分かってきたからかしら、とか。


抗ってどうにかしようと動くことだけがすべてじゃないんだな、と。

手に入らないことや状態に全神経とエネルギーを向けて動かないものを動かそうとするとそれは執着となって狂気を呼び込む            ー『今あるものに気づきなさい(著者:加藤朝胤)』

と学べたことはひとつ気づきになった。

喧騒から「降りた」からこそ『生きる』に丁寧に向き合えるようになったのかもしれないな。幸せの敷居が低くなる、と個人的には呼んでるけど朝炊いたお出汁がいい香りだったとか、温かいコーヒーが美味しかったとか、子どもが今日も無事生きて笑って眠った、とか。ただ日々の何気ない瞬間がありがたいと思えること、大事だと胸打つこと。

言葉にすると簡単だけど、本当はもっとじんわりと心にしみている。


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