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【最近読んだ本】小説家には、聞かれても答えなくていい質問がある?

読んだ本の感想をすぐに書き留めておきたいと思いながらも、怠惰な性質ゆえ、長年できずにいた。今思うともったいないことだ。
noteでは多くの人が読んだ本の感想を投稿している。ご丁寧に「あらすじ」を細かく書いているものもあれば、わりと短く感想をまとめているものもある。中には批評家さながらの鋭い分析をされている人もいて、そういうものは、自分にはとても書けないので尊敬する。
この半年ほど、noteで毎日何かしら本に関する投稿を読ませていただくなかで、読書感想文というのは、いろいろな書き方があるものだと、改めて知った。

自分は、といえば。
理想のイメージとしては、群ようこさんが昔(1987年出版)書いていた『鞄に本だけつめこんで』みたいなもの。がっつり「書評」ではなく、自分の体験や考えを面白おかしく書き、それと「本」の内容を結びつけて着地する。見事な書評エッセイで、あれこそが自分の目指す「読書感想文」のカタチだと思う。

が、そんな見事なことができれば、さっさと本でも出版して、こんな三流ライターを20年以上やっていることもないわけで。
毎月かなりの数の本を読んでいるにも関わらず、なかなかnoteで【最近読んだ本】の投稿ができなかったのは、目指すような「書評エッセイ」が書けなかったからだ。
でも、これからはせめてメモ程度にでも、noteに【最近読んだ本】の感想を書いていければいいと思う。自分の備忘録のような感じで。

長い言い訳のような前置きはこのくらいにして、そろそろ昨日読んだ本のことを書こう。

中島京子さんの『樽とタタン』だ。
「タルトタタン」という言葉の響きだけを聞いて、あのりんごのお菓子を思い浮かべる人もいるだろうが(私もお菓子の話かと思って手に取った)、お菓子はまったく出てこない。

母親が仕事でいない間、近くの喫茶店に預けられている小学生の女の子が主人公で、彼女はいつもその喫茶店にあるコーヒー豆の入っていた樽の中に座っている。それを見た常連客の老小説家が「樽と一緒なら、おまえさんをタタンと呼ぼう」と言って名付けたのだ。つまり、喫茶店だけでのニックネームだ。

タタンは毎日喫茶店へ行き、樽の中から常連客を眺め、時には接し、痴話ゲンカ程度の軽い事件に巻き込まれながら日々を過ごす。
その当時のことを今は小説家になった作者が思い出しながら書いているという設定で物語は進んでいく。章を追うごとに少しずつタタンと周りを取り巻く人たちのことがわかっていき、最後にはタタンの本名も明かされる。

読み終わって、これは好き嫌いのはっきりわかれる小説だろうなと思った。
これまでに読んだ中島京子さんの『FUTON』や『小さいおうち』『夢見る帝国図書館』などにも共通しているのだが、中島京子さんの書く文体というのは独特で、私はいつも昭和初期の文学を読んでいるような気持ちになる。
『樽とタタン』もそうで、その文体が作品全体にノスタルジックな空気を醸し出す。
それを心地よいと思うか、否か。

また、とりとめもないような話が続くものだから、この物語がどう進み、どんなふうに終わるのか、さっぱり見当がつかないまま最終章を迎えるのだが、ラストの4行にしびれた。

赤い樽のある喫茶店で過ごしたわたしの幼少時代の物語はここで終わりになる。あの店はもうないし、あそこにいた人々がどうしているのかもわからない。とはいえ、わたしがこれを知っているというのは、ありがたいことだと思っている。小説家には一つだけ、聞かれても答えなくていい質問がある。

小説家が聞かれても答えなくていい質問。
勘の良い人は、この本を読まなくても、なんとなくその「質問」が何なのかわかるだろう。

『樽とタタン』の最終章を読み終わった時に、多くの人が作者にその「質問」を投げかけたくなる。それがわかっていての、このラスト。なかなか粋だなぁと思う。

ハラハラドキドキも、号泣するほどの感動もないが、ノスタルジックな空気に包まれた童話の世界に入り込んだようで、最初から最後まで心地よい本だった。



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