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「いつかの旅」を再び。私も冒険の旅に出よう。

7月に入って少し時間に余裕ができたので、またゆっくりと読書をしている。
忙しい時でも本は読むが、この「ゆっくりと」という点が肝だ。
移動中や夜寝る前に読むのではなく、昼間の気分の良い時に、「よし、これから30分、本を読もう」と決めて、おいしい紅茶など用意してソファでくつろぎながら読む。そういう“ゆとりのある”読書ができている。

だから、そのような読書にふさわしい本を選んだ。何か月も前から買っていたのに「積読」がありすぎてなかなか手を伸ばせなかった2冊のシリーズ。
沢木耕太郎さんの「旅のつばくろ」「飛び立つ季節」だ。

「旅のつばくろ」は帯にもあるように、もともとJR東日本車内誌「トランヴェール」で連載していた旅エッセイをまとめて単行本化したもの。「飛び立つ季節」はその続編だ。

ページをめくるたびに、良質な本、良質なエッセイ、良質な文章を読んでいる、という気持ちになった。
この本には「良質な」という表現が一番ぴったりくるような気がする。

短編のエッセイ集のため、少しずつ読めるのもよかった。
今日は3話、今日は5話、今日は1話だけ、と毎日少しずつ読んだ。それこそ良質な食材で丁寧に作られたおいしい料理をひと口ずつ味わうように。
華美に盛り付けられることなく、素朴だが滋味深い。味わっていくうちに、私の心は栄養で満たされて元気になっていくような気がした。それは至福の時だった。

内容は、言ってみれば、沢木さんの旅の思い出話だ。高校生の時に初めて東北一周の一人旅をした時のこと、その思い出の地を大人になって再びめぐったこと、仕事で行ったり出会ったりした人との記憶を振り返る旅や、本で読んだ場所に実際に足を運んでみる、というものもあった。
すべて国内旅行で、私自身も日本全国かなり細かいところまで旅をしてきた人間だから、「ああ、そこそこ、私も行ったことがある」と思い出す場面がいくつもあり、そういう読み方ができることも楽しかった。
また、逆に行ったことのない土地の話には興味が湧き、いつか訪れてみたいと思うようにもなった。

何より沢木さんの飾らない文体は、相変わらず心地がよかった。
私は「読みやすい、わかりやすい、飾らない」をモットーにして文章を書いているが、今回久しぶりに沢木さんの文章に触れて、ああ、そうだ、私は沢木さんみたいな文体を理想として、お手本にしていたんだなと思い出した。もちろん一生かかっても追いつけることなどなく、「手本にしている」などと言うこと自体おこがましいのだが、憧れるのはやはりこの文体だ。

沢木さんの作品を初めて読んだのは高校時代だったと思う。「人の砂漠」というノンフィクションの短編集だった。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、それは本当なんだと思った。私の想像などはるかに超えるほど、この世には信じられないようなことが実際に起こっていて、それを書いている人がいることに衝撃を受けた。それから沢木さんの作品を読みまくった。
今、私の本棚に見えているだけでも、「人の砂漠」のほかに、「一瞬の夏」「地の漂流者たち」「王の闇」「馬車は走る」「バーボン・ストリート」「チェーン・スモーキング」「彼らの流儀」「象が空を」「路上の視野」「壇」「キャパその青春」「世界は『使われなかった人生』であふれてる」「深夜特急」「凍」「無名」「血の味」と、たくさん並んでいる。本棚の奥にはもう少しあるはずだ。

先ほど「事実は小説よりも奇なり」と書いたが、沢木さんは決して奇抜な事件や誰もが知る有名人ばかりを追って取材をしているわけではない。市井の人々や目をこらして見ていないと通り過ぎてしまう出来事にもスポットをあて、あたたかく、やさしい目で表現する。
「旅のつばくろ」にもその「目」は何度も登場していた。旅先で出会ってひと言、ふた言会話を交わしただけの人、偶然目にした景色。そこに彼は独自の「意味づけ」をする。「これはきっとこういう意味があったのでないか。だから見られてよかった。行けてよかった」と、常にポジティブに。だから読者もホッとして、なんだかあたたかい気持ちになれるのだと思う。

たとえば「飛び立つ季節」の中にこんな話がある。
葛飾北斎の描いた「下野黒髪山きりふりの滝」を見るため、日光を訪れた沢木さん。しかし、10分足らずの見物で期待外れに終わる。持て余した時間をどうしようかと考え、近くの「華厳の滝」を見に行くことにした。有名な滝だが、行ってみるとやはり感動がない。
さらに時間を持て余し、もうついでだからと聞いたこともない「竜頭の滝」というところへ行ってみた。すると、不意に目の前に滝が現れ、それも見物人などいないから、滝の正面に立つことができた。
「あたかも双頭の竜のようで、白い飛沫に紅葉も美しく映え、まさに一幅の絵のようだった。思いもよらない見事な構図の絵柄に、私はしばし見惚れてしまった」
そんな感想を持ちながらも、沢木さんはこうも考える。
もしかしたらその美しさを事前に知っていたら、これほどの感動はなかったかもしれない。「思いもよらず」という偶然が私の心を動かしてくれたのだ、と。自分が旅先でガイドブックをあまり利用しないのも、この「思いもよらず」という体験が薄れてしまうからかもしれない、と。

そして、最後にこう締めくくる。
旅の予定には、思いがけないものと遭遇できる「隙間」を作っておくといいような気がするのだ。それは単に時間に余裕を持たせておけばいいというだけのことではない。期待する気持に、思いがけないものと遭遇することの喜びを受け入れられる、ちょっとした「隙間」を空けておいたらと思うのだ。

これを読んだ時、「隙間を空けておく」という考え方は、旅の予定だけでなく取材にも当てはまることかもしれないな、と思った。
取材前には相手の情報を仕入れ、質問を考え、ある程度のシミュレーションをしておく。だが、相手は自分が思った通りの答えを返してくれるとは限らないし、話がまったく違う方向へいってしまうこともある。ただ、その「思いがけないもの」が、実は取材相手の本質を表していることもある。ふとした雑談から記事の軸となるような言葉を聞けることもあるのだ。
そういう「思いがけないもの」と遭遇した時に、慌てたり無理に自分のペースに引き戻そうとしたりせず、「面白いぞ」と思えるような「隙間」を自分に作っておきたい。そんなふうに思った。

それからもう1つ。
「旅のつばくろ」を読んで、私も沢木さんのように「いつかの思い出の地」をめぐってみたくなった。
実は私も東北一周旅行をしたことがある。学生の時、友達と3人で周遊券を使い、安いユースホステルに泊まり、できるだけお金をかけない方法を考え、分厚い時刻表を片手に電車やバスを乗り継いで1週間ほど旅をした。
どのようなルートでまわったのか記憶があやふやなのだが、喜多方、仙台、平泉、遠野、盛岡、秋田、奥入瀬、十和田湖、八戸辺りを訪ねたように思う。それ以来、東北を好きになりすぎて何度も訪れているので、よけいに記憶がかぶってしまって正確なことが思い出せないのだが。

その旅の中でどうしてももう一度訪れてみたい場所がある。それは「場所」というより「乗ってみたい電車」で、東北地方を縦断する電車ではなく、横断する電車だった。太平洋側から日本海側へ。
確か喜多方から出発したのだと思ったのだが、今地図で調べてみると、もしかしたら出発地点は盛岡だったかもしれない。
なぜその電車に乗ってみたいかというと、車窓からの景色が忘れられないからだ。古き良き日本の美しい手つかずの自然がそこには広がっていた。これは日本昔話の世界か、世に言う桃源郷か、と思った。
あの後、「横断した時の風景がよかったなぁ」と繰り返し思い出していたので、「横断した路線」であることは間違いがないのだが、今となっては正確に出発地点すら思い出すことができない。もしかしたら夢の話だったのかと思うこともある。それくらいぼんやりとしているのだ。

もう一度行ってみたいと思いながらも、そんなあやふやな目的で旅に出るのは無理だとあきらめていたが、「旅のつばくろ」を読んでいたら、ええい、ままよ、行ってみようか!という気持ちになった。できることなら死ぬまでにどうしてもあの風景を見てみたい。
ただ、すでに30年という時が流れている。さらに東日本大震災という甚大な被害もあった地域だ。同じ景色が残っているとは限らない。それに、私の想像の中でどんどん桃源郷は美しさを増しているため、実際の風景を見たらがっかりしてしまうかもしれない。

それでも。
行ってみようか。あれは3月の末から4月初旬にかけての春休みだった。
同じ景色を見るなら、同じ時期がいいだろう。
「旅のつばくろ」を読んで、来年の春の新たな目標ができた。
実現したら、その旅は、私のちょっとした冒険になりそうだ。

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