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明日のパンは買えなくても、家に一輪の花を飾ろう。

「いつもトイレにお花を飾ってるんやね」
20代の頃、一人暮らしをしていた私の家に遊びに来た親友が言った。

そう言われるまで、私は“それ”を特別なことだと認識していなかった。
実家にはいつも家中に、当たり前のように花が飾ってあり、私は「花のない家」というものを考えたことがなかった。

最初に一人暮らしをしたマンションは、玄関に備え付けの靴箱があった。
だからその上にも常に花を活けていた。

当時、新聞の集金のおばちゃんが毎月訪ねてくるのだが(23年前のこと。引き落としではなかった)、おばちゃんはいつも玄関の花を見て「きれいね」「素敵ね」と褒めてくれた。

たかがそれだけのことで、私のことを「良いお嬢さん」と思い込み、2年経つ頃には「いい人がいるんだけど、会ってみない?」と、見合い相手を紹介しようとするくらいにまで信用されていた。(断ったけど)

花を飾る。

それが、私が思っているほど一般的ではなく、むしろイメージアップにまでつながるものだと知ったのはその頃だった。

今日、久しぶりに実家を訪ねた。
着くやいなや、母は「かわいいお花があるのよ。持って帰らない?」と言って、「ちょっと来なさいよ」と私を庭へ誘った。

古ぼけた5階建ての団地の1階。
築48年。
でも、ゆったりと建てられていて1階に庭があるのは、当時の田舎町ならではだと思う。

庭に出るとすぐに、眩しいほどの緑と色とりどりの花が目に飛び込んできた。

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ああ、母の庭だな、と思う。
子供の頃からずっとこの庭が私の遊び場だったし、生きていくのが辛い時の逃げ場だった。

「これかわいいでしょ」
「これ、今年はいっぱい咲いたのよ」
そんなことを言いながら、ちょんちょんとハサミで花を切る。

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子供の頃からずっとそうだった。
朝起きると花を切って、包装紙にくるくると巻いて、「かおりちゃん、学校に持って行きなさいよ」と私に手渡す。
小学生の私は素直に受け取って、学校で先生に渡す。
先生は花瓶(というか空き瓶)に活けてくれて、教壇にはいつもうちの庭の花があった。

子供の頃から、何の取り柄もない私。
でも、母のおかげで、美しいものを美しいと思える人間になった。
どんな時も、部屋に花を飾れる大人になった。

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誰の言葉だっただろうか。
「明日のパンは買えなくても、家に一輪の花を飾ろう」

きれいごとだと言う人もいるだろうが、私はそういう人生を送りたい。
逆に言えば、我が家に花が活けてある限り、私はまだ大丈夫なんだ。

<母の庭、全貌>

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