作曲の方法論60

で、改めて「詩先」についてまとめていきたいと思います。

まず「詩先」の長所ですが

・「詩」という音楽と直接結びつかない「外部制約」が入ることによって 音楽視点からでは生み出すことの出来ない作品が生まれる

・詩が「音楽」から制約を受けないため、「書きたいこと」をそのまま表現化された作品を作ることが出来る(もちろん作曲者側にその詩の「書きたいこと」に対する「共感」が存在することが前提)

・「伝えたいもの」が明確になっているため、曲を制作するにあたって焦点が絞りやすい

後の2点は作品のベクトルが決めやすい点という意味で「類似」したものです。

短所については

・特定の曲が頭の中である状態で書かれた「歌詞」からは同じような曲が生まれる可能性が高い

・字脚を考慮して書かれた「歌詞」からはそれなりの曲しか生まれない(字脚自体が一定のリズムを内包しているため、制約が強くなりすぎる)   ※もちろん「定型詩」が詩として悪い、という訳ではなく、曲を制作する上での話です。

・かといって字脚を気にしないで書かれた「詩」から曲を作るには、一定の技術は必要

・「伝えたいもの」が詩の時点で明確であることが多く、そこから外れた曲を作ることはできない(詩とベクトルの合わない曲は作れない)

・ほぼメロ先になるため、メロ先の短所(調性内の音に収まりやすい等)を合わせ持つ(但しメロをパート毎に作っていけば、転調はあり得る)

・詩がないと出来ないこと(当たり前ですが(笑))

といったところでしょうか。

やはり「詩先」にもメリット・デメリット両方あるので、どちらがいいか、ということは明確に言えませんが、確実に言えるのは、曲を書く以前に「詩」の中身が重要だという点です。

中身がダメでもいい曲を書けるのかもしれませんが、少なくとも気持ちは入らないでしょうし、その部分は「弱点」になりかねませんから、やはりそこが最も重要な点ですね。

後はバランスの問題で、「詩先」ばかりやっていると、やはり自分の「幅」が狭まる可能性があるので、「詩先」ばかりやっているのは良くないでしょう。

かといって、「詩先」で曲を作ることで、自分自身の可能性が拡がるのは間違いないですから、一度はやってみる価値はあると思います。

前にも書きましたが、「詩先」で書かなかった筒美京平さんが、「木綿のハンカチーフ」を書いた後は詩先でも曲を書くようになった、という話をこの曲の作詞家が書いてました。

この作詞家の方、「赤い花」が実在しない花に「赤い~」という歌詞を付けた挙句、曲のタイトルにまでしたり(その後品種改良で本当に赤い花が作られたそうですが...)、マーメイドを裸足にしてしまう「創作名人」ではありますが、まさかそこまで「創作」ではないでしょうから(笑)。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。