作曲・編曲134

今日は予告通り、どのような詩を元にして音楽制作をすると、オリジナリティが生まれやすいか、もしくは生まれにくいかについて考えていきたいと思います。

まずは適切でない方から。

というのもその方が書きやすいんですよ(笑)。

まず最初に考えられるのが、「音楽を意識し過ぎている」詩です。

一番良くない例が、Aメロ、Bメロ、サビ等部分毎に指定が書いてある詩です。

というかこれはもはや「詩」ではなく「歌詞」ですね。

もちろんこのような「歌詞」が悪い訳ではありません。

曲を量産するためであれば、むしろ好ましい(自分個人としては余計なお世話にしか思えないので歓迎しません)。

ただ当たり前ですが、音楽を意識して書いているので、ありきたりな作品になりやすい。

構成がしっかりしている分、ありきたりでない作品を制作することも出来ますが、そうなると「詩先」で作る意味自体がありません。

「詩先」で作るメリットが消えてしまいます。

「詩先」の制約性が低くなるからです。

以前にも書いた通り、「詩先」で「オリジナリティ」の高い作品が作れるメリットは「思うようにならない」からです。

このような指定があると、その点が少なくなりやすい(全くない訳ではない)。

それに加えて、「音楽を意識し過ぎる」と、詩のクオリティに影響を与えかねない。

むしろ余計な気は使わないで、自由に描いた方が詩としてのクオリティは高くなるでしょう。

クオリティの高い詩の方がこちらも刺激を受けるんですよ。

だから余計な気は使わない方がいい。

少し記事が長くなってきたので、続きは明日にでも。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。