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ミニマリストが感じた時短家電のデメリット

 「時短家電は、暮らしを無機質に、そして複雑にしてしまう」

 ミニマリズムにおいて、時間というものには『豊かさ』というキーワードが密接に関係しています。それはつまり、ミニマリストは『時間の質』を重視するということでしょう。しかし昨今、無駄な時間は省き、タイパ(タイムパフォーマンスの略。費やした時間に対する成果の尺度を表す言葉)を追求すること、つまり『時間の量』を重視する傾向が強まっているように感じます。この文脈にのっとれば、「時間を生み出す」時短家電はそれを助長してしまうでしょうし、トレードオフのように『時間の質』の低下、つまり我々の暮らしから『豊かさ』を奪っている可能性もあります

 わたし達の暮らしに欠かせない家事という要素。そして、これを肩代わりしてくれる全自動家電。そんな、通称『時短家電』は、私たちにどのような影響を与えているのでしょうか。ここでは、ミニマリスト歴6年目の私が実際に時短家電を暮らしに取り入れての気づき、そこから感じた『私たちの暮らしの豊かさに必要なものとは何か』というやや固い問題を、固い石頭を抱えながらつらつらと、できるだけとっつきやすく書いていきます。

 さきに結論から申しますと、今回の記事の一押しのフレーズは「反復・継続・丁寧は心地ええんや」であり、私からお伝えしたいことは冒頭に申し上げた通り「時短家電は暮らしを無機質に、そして複雑にしてしまう」ということであり、「暮らしの中の小さな幸せを見逃さないでください」で結びとなります。

 これを読めば、ご自身のライフスタイルに合った時短家電を選びやすくなったり、暮らしの中のささいな家事を楽しめるようになったり、もしかしたら幸せな人生を送るヒントが見つかる、かもしれません。


ことの始まり

 ミニマリズムを知ったばかりのころは、「家事をする時間は無益で、その時間を生産的なことに使うべき。少なくとも、大切な寿命をそんな些末なことに費やしたくないやい!」と思っていました。そして、ミニマリストという肩書きで活躍しているインフルエンサー諸兄に習い、いくつかの時短家電を暮らしに導入してみたのです。

 その日を境に私の生活がバラ色で豊かなものになったかといえば、そんなこともなく。時短家電のある暮らしは、SNSで声高に謳われるような自由、快適さばかりではなかったのです。

 「時短家電は、本当に豊かな時間を我々にもたらしてくれるのか」

 「そもそも、家事に手を動かす時間は、本当に無駄なのだろうか」

 こんな思考にからめとられ、暮らしの中で私の動きは徐々に鈍化していく始末・・・。はたして、盲目的に時短家電を使うことが、生活をよりよくすることにつながっているのでしょうか。そもそも、よりよい暮らし、豊かな時間ってなんだっけ?

 わたしは、すっかり分からなくなってしまったのです。

時短家電のある暮らし

食洗器編

 わたしはこう思っていました。「食事が済んだ後、皿洗いなんてせずに、のんびりしたり勉強できたらいいな」と。そこで、食洗器を導入してみました。

 使った食器を食洗器にすべて突っ込むので、洗い終わった皿を並べてキッチンが雑然とすることはありません。自分の手で洗わないので、油汚れのぬめりに触れずに済み(ここが、私が食洗器を取り入れて一番良かったと思うポイント)、洗剤で手荒れすることもありません。食洗器が洗い物をしている間、持ち主の私は好きなことができますし、乾燥まで済んだ食器は、好きなタイミングで取り出せばOK。

 めっちゃいいじゃん食洗器!ビバ、時短家電のある暮らし! 


 とは、なりませんでした。

 文明の利器を手にしてなお、私にはひっかかることがあったのです。

 まず、予備洗いが煩わしい。お皿に残ったゴマ粒や野菜の端切れ、濃厚ドレッシングなどを、軽くすすいでから食洗器に入れなきゃいけません。食洗器のごみ受けにたまった生ごみを、後から回収したくありませんもの。

 次に、たまに洗い残しがあることも煩わしかった。乾燥まで終わった食洗器から取り出したお茶碗に、カッピカピの米粒が引っ付いているときの絶望感たるや。そうなったらもう、自分で洗うしかないのです。なんのための食洗器か。

 これは私が悪いのですが、食器は入れたのに食洗器のスイッチを入れ忘れることが、まれにありましたね。流し台に放置されていれば気づいて洗うこともできますが、食洗器に隠されてちゃあ、さすがにお手上げです(自分のことは棚に上げております)。翌日になって気づくので、絶望もひとしおです・・・。

 あと、音がうるさいですね。一生懸命洗ってくれるのはありがたいのですが、『丁寧で静謐な暮らし』には向いていません食洗器。

 食洗器自体を、たまに人間様が洗ってあげる必要もあります。結局、食洗器に入れる前の予備洗い、洗い残しの尻ぬぐいと、私が食器を洗う時間が0になることはありませんでしたね。


 食洗器という時短家電は、予備洗い→食器を食洗器へセット→(うるさい洗浄時間)→食器の点検→(洗い残しの手洗い)→食器を仕舞う、という、かえって皿洗いという家事の工程を複雑にしています

 確かに洗い物の時間自体は減っていますが、工程は増えているので、その工程のつなぎ目ともいえる部分に時間がかかり意識も割かないといけない。つまり、食洗器はかえって手間がかかるという印象を受けました。ミニマリズムをモットーに生きる私にとって、この無駄に工程が増えて家事が複雑になるのは、手間だけでなく精神的ストレスにもなっていました。

 今は食洗器は使わずに、己の手とスポンジでお皿たちをピカピカにしております。やることが単純なので、暮らしがすっきりしました。Simple is the best というやつは、本当らしいです。

ロボット掃除機編

 わたしは、床掃除というものを憎んでいました。

 どのくらい憎いんだい?と問われれば、床掃除の頻度を減らしたい一心で、ほこりを発生させないようにカーテンを撤去しようと画策したり、布団やシーツをやめてシャカシャカ生地の寝袋を導入しようとしたくらい、です。

 そこで、床掃除が嫌いな私の代わりに働いてくれるロボット掃除機を試してみました。

 家具やカーペット、コンセントなどの障害物が多い家では使いづらいという触れ込みでしたが、そこは腐ってもミニマリストの部屋。ロボット掃除機のために片づけずとも、床にはほとんど何も置かれておりません。まさに、ロボット掃除機を使うために整えられたような空間で暮らしていましたので、ロボット掃除機は猫型の青の君よろしく、我が家の暮らしになじんでくれました(ちなみに私は、のび太君と同じように丸眼鏡で昼寝好きのインドア派です。どうでもいいですか)。


 しかし今回も、私の暮らしと時短家電の間で摩擦が生じることになりました。

 わたしの家の窓際には、割と大きなオリーブの木があります。植木鉢の重みだけで水やりの調整ができるほどには、愛着のある観葉植物です。

 そんな我が家のオリーブちゃんに、新参者のロボット掃除機はぶつかるのです。壁や段差は検知して避けるのに、植木鉢にはガンガン体当たりをかますのです。ここは相撲部屋かと言いたくなるほどに。あれか、オリーブに嫉妬してるのか?

 さらに、私が机に向かい文章を書いていると、足に容赦なく乗り上げてくることもあります。愛情表現にしてはいくぶん過激ですし、ふだん素足で過ごす家主にその仕打ちはひどくないですか?

 こんな具合に、まだまだ発展途上のロボット掃除機は、私の夢見る『全自動』ではなく、雑で気の利かないアルバイトを雇っているようなものだったのでした・・・。

 ほかにも、何かに乗り上げてしまえば動けずに息絶えますし、髪の毛が絡まってしまえば止まってしまう。掃除が終わっていることを期待して家に帰ると、ロボット掃除機の救出というタスクが新規発生しているのです。もちろん、掃除も終わっていません。結局、自分でクイックルワイパーをしたほうが早いのです。

 そして、ロボット掃除機を手放すことになった最大の原因。それは、インテリアを阻害してしまうところ。ロボット君が仕事終わりに帰る充電台は、ロボットが帰りやすいよう周囲のスペースを確保しなくてはいけないのですが、これがまあ目立つのなんの。だって、何もない空間にポツンと充電台が鎮座することになるのですから。美術館で作品が映えるよう周りをがらんとさせるように、我々ロボット掃除機の飼い主は、ロボット掃除機のおうちをわざわざ目立つようにインテリアを組まなくてはならないのです。本当なら、部屋の隅にひっそりとしておいてほしいところなのに(ベッドの下に格納する方法もありますが、掃き集めたほこりを捨てたりメンテナンスしたい時に手が届かない。そもそも我が家のベッドは床に直置きするスタイルなので、できませんが・・・)。


 そんなこんなで、ロボット掃除機は手放してしまいました。代わりに、クイックルワイパーで掃除をしておりますが、かなり快適です。

 ロボット掃除機に必要だったお世話(手入れや溜まったゴミの回収、動けなくなったり充電台を見失ったときの救出など)が、いかに手間であったかを痛感しました。ただの床掃除なのに、これだけの要素を組み合わせて運用する必要はありません。『全自動』に憧れて、無駄に複雑にしてしまっていたのです。ミニマリズムの視点で考えるなら、ロボットとそれにまつわる付属品で家を満たすより、棒切れひとつと自分の体で掃除を済ますべきだったのです。

 なかなか思い通りにいかないロボット掃除機を使って日々思い悩むより、自分の手を使ってクイックルワイパーでささっと掃除したほうがシンプルで、私は気楽でした

暮らしとは、自分の手を動かすこと

 時短家電を手放して、自分の手で洗い物や掃除をするようになってから、改めて気づいたことがあります。

 それは、手を動かすことは心地いい、ということ。

 気が向いたときにささっと掃除をする。やり始めると、なぜだか興が乗ってくる。使い終わったシートを畳んで、端の綺麗な部分で窓辺や洗濯機の下を拭く。シートが掃除で真っ黒になっていると、達成感がある。

 シンクに洗い物がたまっているのが嫌い。でも、自分の手で洗うのなら、こまめに気になった時にささっと洗える。洗剤をスポンジに継ぎ足さずに洗い終えたり、少しの水だけで泡を流しきれたり、キッチンの隅っこに整然と積み重なった食器の山。そんな些細なことが、うれしい。これはきっと、『ささっと』できるから感じられることで、それはつまり、シンプルであることが重要なのかもしれません。

 時短家電で複雑化した暮らしを経験して、改めて見えてくるものがあります。それは、単純な動作の反復、という所作。これは、私たちに達成感や心地よさを感じさせてくれるもので、暮らしを営む上で、とても大切なことです。繰り返し手を動かして床をまんべんなく綺麗にすること、ひとつずつ皿を洗い綺麗に並べていくこと。または、磨き残しのないように歯を磨き、毎晩寝る前に日記をしたためるような、そんな些細な日常です。

 これらの、以前の私が『削ぎ落すべき無駄な時間』と考えていたものは、ウェルビーングの観点から価値を見直されている散歩であったり、もしかしたら写経や座禅に近しいものなのかもしれません。日々、手を動かし家事を遂行することは、心を整えることにつながっていると感じるようになりました。

 もし科学がずっと進んで、家事のすべてが自動化されたとしたら。人類は空いた時間をきっと持て余してしまう。

 もし人類が進化して、入浴や歯磨きが不要になったとしたら、シャンプーしている間の他愛のない考え事や、磨き上げた後のすっきりとした感情がなくなってしまう。

 もし医療が進歩して、小粒のサプリメントさえ摂れば食事が不要な世界がきたら。旬の食材を喜ぶことも、料理を作る楽しさも、味わう時間もなくなる。

 ちょっと大げさなたとえ話ですが、自分の手を動かす時間は、ほどほどには残しておきたいなと、私は考えています。

 暮らしとは、自分の手を動かし生きること。

 まだはっきりとした言語化はできていませんが、現時点での私の気づきは、こんなところでしょうか。


 余談ですが、ハイキュー(大人気の高校バレーボール漫画)に遅ればせながらはまっていまして、とある対戦チームの主将、北信介が放った名言にこんなものがあります。

 「反復・継続・丁寧は心地ええんや」

 彼はバレーの練習だけでなく、掃除、勉強、うがいなどの体調管理、早起きやボール磨きを、淡々と毎日きっちりやるのです(その積み重ねた日々が彼の自信と安定感を生み出し、主人公チームは苦戦を強いられるのですが)。

 どこか丁寧な暮らしにも通ずる、自分のリズムを作る日々の小さな行動の積み重ね。こつこつと目立たない努力を続けている自分を肯定してくれるようでもあり、なんだかぐっときてしまったのでした。

豊かな時間を作るのは、時短家電でなく自分自身

 自動で家事をやってくれるいわゆる時短家電。これは非常に便利でしょう。でも、シンプルな道具を自分の手で使う暮らしの方が、すっきりしていて私は好きです。

 皿洗いや掃除をする中で、ちょっとしたすっきり感や達成感が得られることは前述した通り。この、小粒な満足感(大げさに『幸せ』、または『豊かさ』と言ってもいいでしょう)は、大切にしていきたいし、粗雑に扱いたくはありません。「無駄な時間だ」と決めつけ、時短家電を取り入れ捨て去ってしまっていいものとは、どうしても思えないのです。

 それでも、ミニマリストをはじめ多くの方が、「家事なんてできればしたくない」でしょうし、「家事の時間を、生産的なことや趣味に充てた方が豊かな時間になる」とおっしゃるでしょう。わたしもそれは否定しません。しかし、時短家電で家事をすべて済ませ、生産的なことに全ての時間を充てるというのは、やや過剰ではないかとも感じているのです。

 分かりやすくするために、食事を例に考えてみたいと思います。もし私が、「好きなものを食べている方が幸せだ!豊かさだ!」とほざき、脂ののったステーキとイチゴのタルトばかりを食べていたらどうでしょう。ここで私が言いたいのは、「寿司とかピザとか、おいしいものは他にもたくさんあるよ」ということではありませんのであしからず。もちろん本旨は皆さんのお考え通り、「それじゃあバランスが悪いよ」です。もっと、素朴で滋味に富んだひじきだとか、煮干し、納豆などの、一見地味なものも食べるべきなのです。(たいして分かりやすくなってない・・・。この例え話、しない方がよかった気がしてきました)

 つまり、豊かさを構成するのは、華々しいものだけではなく、素朴で地味なものでもあるということです。趣味に没頭したり友人と過ごすかけがえのない時間だけではなく、掃除や皿洗いで感じる小さな達成感も、私たちの暮らしには必要なのです。

 時短家電で時間を確保したとて、それが(暮らしの複雑化によって)不満のある時間であれば意味はないし、かえって(手を動かすことで生まれていた)小さな幸せを手放す結果になってしまう。それに、家事の全自動化をしたとしても、豊かな時間の使い方ができないなら元の木阿弥です。空いた時間でYoutubeやSNSを徘徊していたら意味がないのですよ(実体験です)。

 結論としましては、時短家電は空き時間を作ることはできるが、その時間の質の担保はできない、ということでしょうか。豊かな時間を過ごすことができるかどうかは、その時間を過ごす我々次第であり、自分の感覚に耳を澄ませ、自分が心地よくいられる暮らしを日々少しづつこしらえていくことが大切なのではないでしょうか。それが砂の城か、レンガの家か、はたまたテントか。それぞれのライフスタイルに合わせた暮らしを設計して、のんびり暮らしていきましょう。

むすび

 満足いく暮らしの土台となるのは、自分自身がどう生きているかという自覚なのではないか、とこの文章を綴りながら、ぼんやりと考えるようになりました。つまり、感覚、感情、心が重要なんじゃないかなと。それらが自身を評価する指針になるから。だとしたら、暮らしの中にちりばめられた、心を整えてくれる小さなものごとを大切にすることが、自分の豊かさを育てていくのであり、暮らしの豊かさに続いていくのかなと、私は考えます。

 きっと、小粒な満足感の中にこそ豊かな時間が隠れている。そう信じて、私は今日も、皿を洗い、床を掃除しています。

 みなさんの暮らしが、より一層素敵なものになりますように。


 おわり

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