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[江戸幕府]将軍というポストの決まり方(「能力」か「おさまり」か)

江戸時代は将軍が一番偉いとされた時代だ。そして、その将軍は世襲だった。基本的には嫡男から嫡男へ地位が引き継がれていくわけだが、実際はそういはうまくいかない。実は何回も世継ぎがいない事態が発生する。ここではそのような場合、どのようにして将軍が決まっていったかを見ていきたい。

一番初めは5代将軍、徳川綱吉の時だ。4代将軍家綱は子供がいなかった。そのため、聡明であった家綱の弟綱吉が病床の家綱に指名されて将軍になった。このとき綱吉の後継のライバルだった家宣も、綱吉に子が残されなかったため、綱吉の養子となって6代将軍になった。

家宣の息子7代将軍家継は満6歳で死亡してしまう。もちろん世継ぎはいない。8代将軍の候補は家格から尾張・紀州・水戸の御三家の当主からということになる。遺言もなく家継の意思が不明であったため、家継の母である天英院が支持した紀州藩主の吉宗が結局将軍になった。

格としては尾張藩主の継友の方が吉宗よりも上であり、家宣・家継の側近である間部詮房・新井白石は継友を押していたが、間部・新井に反発していた譜代大名が吉宗支持にまわり天英院の支持をとりつけた結果であったという。

10代将軍徳川家治は嫡子がなくなったのあと、徳川家斉を養子にした。世継ぎの候補には聡明な松平定信がいたが、家斉の父である徳川治済と老中田沼意次の推しが家斉にはあった。家斉が将軍になった際、その年齢は15歳であった。

家斉は父の傀儡として将軍職にあたったが、父の死後も征夷大将軍として最長の50年の間在職した。浪費を続け、政治には関心がなかったが、文化政策に厳しい締め付けを行わなかったことから、その治世において「化成文化」が花開いた。

14代将軍選びは、英才で知られる一橋慶喜と家柄が前の将軍に血筋が近い徳川慶福とで意見が割れた。13代将軍家定から信任のあった大老の井伊直弼が主導し、徳川慶福が後継となり、13歳で将軍となった。

その後、後継争いに負けた徳川慶喜も幕末のゴタゴタの中で火中の栗を拾うような形で15代将軍になる。幕府を立て直すにはこの人しかいないとの幕閣達の期待もあったのだろうが、慶喜は大政奉還をおこない最後の将軍になったのはご存じのとおり。

こうやってみると実力や能力があるから将軍になれたわけではなく、そのときどきの権力者の意向が強く反映され、将軍が選ばれていることがわかる。「能力」よりも「おさまり」がよさそうなことが重要なのだ。だから、10代前半の能力も不明で実績もないものが政治的な決着で最高権力者である将軍になることができる。

もちろん、綱吉・家宣は英明であったそうだし、吉宗は紀州藩主としての実績があったし、慶喜も能力とその後の実績が信頼され将軍になった。「能力」も将軍になる一つの要素だ。もちろん、それは徳川家の中でという話で、「能力」が高い方が「おさまり」がいいだろうと判断されたときに、将軍になることが出来る。

「能力」よりも「おさまり」を重視する風潮は現代にも続いている。そして、長く続いたその風潮に対する反発も大きい。私も大きな違和感を覚えている。ただし、「おさまり」を強く期待された徳川家斉が最も将軍職を長く務め、その治世において化政文化が花開いたことに比べ、「能力」を高く買われた徳川慶喜が約1年の在位の後に江戸幕府を終わらせるのだから、これはもう日本という国の歴史にあらわれた皮肉だと思う。

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