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Pirates of the Caribbeanと英・ステュアート朝

あることを調べていると、関連した別のことが出てきて、それを調べると、さらにまた気になることが出てきて・・・という感じで、最初に調べていたことから遠く離れてしまったような数年を過ごしていましたが、それらはすべてひとつのことが別の形で現れているのでした。



ところで、海賊といえば、私が子どもの頃に抱いていたイメージは・・・

ピーターパンの宿敵・フック船長。
でも、お若い方は『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)なんでしょうね。


海賊は、カリブ海だけでなく、東アジアの倭寇、ペルシア湾のアラブ海賊、北アフリカ沿岸のバルバリア海賊などありますが、この記事ではカリブの海賊について書いていきます。

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17世紀の海賊

映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』(カリブの海賊)の時代背景は17世紀ですが、ちょうど大航海時代のことです。


カリブの海賊は、ヨーロッパの商船を攻撃し(特にカリブ海からヨーロッパに向かうスペイン船隊)、その船荷を奪っていました。
もちろん違法行為ですが、16世紀には合法だったこともありました。


合法だった私掠船

この合法的な海賊行為は「私掠」と呼ばれていました。
交戦相手国の船を略奪してもよい、という国王免許が出され、私掠船が横行したのです。

私掠船(しりゃくせん)とは、戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷、荷物を奪う許可(私掠免許)を得た個人の船であり、国に属した海賊船ともいえる。

当時はフランス、のちにイギリス、オランダの私掠船が、それぞれにスペインの財宝艦隊を襲っていました。

まあ、いつものメンツですね。ぶっちゃけスペインへの嫌がらせです。
八十年戦争(1568年から1648年にかけて。1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)も関係しています。



1628年のマタンサス湾の戦いは、八十年戦争中にキューバで行われた海戦で、オランダ艦隊がスペインの財宝艦隊を破り、11,509,524ギルダー(現在の貨幣価値で5億ユーロ)の戦利品を金、銀、藍やコチニールなどの高価な交易品を捕獲しています。

この資金はオランダ軍に8ヶ月間の資金を提供し、株主は50%の現金配当を享受しました。


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私掠船で得られた利益は、国庫・出資者・船長以下乗組員に所定の比率で分配されました。 イギリスの場合、国王が5分の1、海軍が10分の1を控除し、残りを3等分して船長(船主)、出資者、乗組員で分割したそうです。
 国家や出資者にとって私掠船はおおむね儲かる事業でした。

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そして三十年戦争(1618年-1648年)では、プロテスタントとカトリックの紛争が頂点に達しました。
主にドイツ国内でスペイン・ハプスブルク朝とフランスブルボン朝の最終戦争(最後で最大の宗教戦争と言われる)が戦われましたが、カトリック勢が敗北し、カリブ海におけるスペインの覇権も急速に衰退しました。


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海賊の黄金時代

カリブの海賊の黄金時代は、広義では3回あったそうです。

1.バッカニア時代(1650年 - 1680年頃)
2.海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代) 
3.スペイン継承戦争以降の時代(1716年 - 1726年)


バッカニア( buccanee)は、17世紀にカリブ海で活動した海賊(私掠船含む)の総称。元は1630年頃からスペインを相手に略奪活動を始めたフランス人植民者たち(boucanier、肉を燻す者)を指していたが、その後、イングランド人やオランダ人も加わり、ジャマイカのイングランド人入植者たちが海賊という意味で「バッカニア」という言葉が定着した。

バッカニア時代は、三十年戦争で締結したヴェストファーレン条約の調印以来、オランダが商業的な大成功を収めていたため、イギリスがオランダとの貿易戦争を開始した時期と被ります。


イギリス議会は航海法(1651年)とステープル法(1663年)を可決し、イングランド植民地の商品はイギリスの船でのみ輸送するとして、イングランド植民地と外国人との貿易を制限しました。
これは、自由貿易で生計を立てていたオランダ商人を破滅させることを狙ったもので、その後の25年間で3度の英蘭戦争に発展しました。

第二次英蘭戦争では、海賊たちはイングランド政府から準海軍戦力としての扱いも受け、ナイト爵を与えられてジャマイカの副総督にまで出世したヘンリー・モーガンというイギリス人のバッカニアもいます。

ヘンリー・モーガン


イギリスは、バッカニアを私掠船として対スペイン政策の一環として積極的に用いました。

航海法(1651年)とステープル法(1663年)によってひどい目にあったのがスコットランドでした。よかったら以下の記事もご覧ください。


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2海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代)は、カリブ海を越えて財宝を探すようになった時代だそうです。
海賊ラウンドは、主にイギリスの海賊の航海ルートで、イギリス東インド会社の船や他の国々の航路とほぼ同じく広範でした。

海賊たちはインド洋まで進出し、インドの絹やキャラコなどの贅沢品を標的にしました。

インドのキャラコは、イングランドでは「キャラコ論争」が起きるほど大人気でした。1690年頃からインドから輸入されるようになり、それによって打撃を受けた毛織物業者の反対運動が高じて事件にもなりました。

イギリスがインドと取引を始めたのは、江戸幕府がオランダに気を使ってイギリスを排除したせいもあるんですよね。
これも記事にしようと思ったのに、下書きのままになっています(苦笑)

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その頃、イギリスでは1688年に名誉革命と呼ばれるクーデターが起き、国王ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド国王に即位しました。

名誉革命については、メリーランドとボルチモア伯爵の記事にも少し書きましたが、これはすごい革命でした。

ウィリアム3世
父はオランダ総督・オラニエ公ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は従妹かつ妻であり、共同統治した。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。

オラニエ公ウィリアム3世、私は「オレンジのウィリアム」と教えられた記憶があります。オラニエは英語でオレンジ。
オラニエ=ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)は、現在のオランダ王家です。

ウィリアム3世がイングランド国王に即位すると、フランスと敵対するようになります。フランスとの対立は、ナポレオン戦争が終結するまで100年以上に及びました。
名誉革命はイギリス国内だけでなく、外交においても転換点でした。

オランダにとってはウィリアム3世の統治は、条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられたため、オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになりました。
貿易や海運でもイングランドの干渉を受け、オランダは次第に衰退していったのです。

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18世紀第3次海賊黄金時代


狭義では、スペイン継承戦争以降が黄金時代(1716年 - 1726年)と見られています。

スペイン継承戦争では、スペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)を指しますが、北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれています。
また、イギリスはこの戦争に参戦中に「グレートブリテン王国」と名称が変更されています。


カリブの海賊のほとんどは、イギリス、オランダ、フランス出身でした。
スペイン継承戦争が終結して、職を失った兵士、水夫、私掠船員が海賊に転じたのです。

とくに人数が多かったのが英国海軍で訓練を受けた船乗りたちでした。
商船(奴隷船を含む)で働くことを余儀なくされた彼らは、過酷で待遇が悪い労働環境で従事するより自由な海賊になることを選んだのです。

彼らは、戦時中に放棄されていたニュープロビデンス島ナッソー(現在のバハマの首都)に新しい拠点を建設しました。

ナッソーは当初、イングランド王チャールズ2世にちなんで「チャールズ・タウン」として設立された。
スペインのニュープロビデンス遠征(1684年)の後に街が再建された際に、ウィリアム3世の家名オラニエ=ナッサウ家に由来する「ナッソー」へと改名された。


この時代は、アフリカ、カリブ海、そしてヨーロッパ間で急増した三角貿易の商船が海賊の標的になりました。

三角貿易では、まずヨーロッパからアフリカ沿岸へ航行し、工業品や武器を奴隷と交換する。次に奴隷を売りにカリブ海へ向かい、砂糖やタバコやカカオを積んでヨーロッパへ帰っていく。
もうひとつの三角貿易(砂糖貿易)では、まずニューイングランドの農産物や保存食のタラをカリブ海に運び、砂糖や糖蜜と交換する。それらをイギリスへ運び、工業製品やラム酒と交換し、ニューイングランドへ向かう。
どちらの三角貿易も一つの地点を通過するたびに利鞘が発生しました。

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スペイン継承戦争の結果、ユトレヒト条約でイギリスはアシエント(スペイン植民地での奴隷供給権)を獲得しており、それまでスペインが独占していた新大陸の市場にイギリスの商船や密輸船が介入していきました。
南海会社が年間4800人の奴隷と船1隻分の商品(500トン)を新大陸に供給する目論見であった)
この協約は、海賊行為の拡大にも大きく貢献したと見られます。

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海賊の黄金時代の終焉

しかし、海賊が劇的に増加し多くの船が略奪を受けるようになったため、ヨーロッパ諸国は商船を保護するため海軍を強化しました。
イギリス海軍とスペインの沿岸警備隊が海賊の脅威に対応できるようになり、また海賊の拠点だったナッソーを奪われたことで、第3次黄金時代(約10年間)も終わりました。

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ジャック・スパロウも東インド会社で働いていたことがありましたね。


ジャック・スパロウにモデルがいたか調べてみると、三毛猫ジャックと呼ばれたジョン・ラッカム、通称キャリコ・ジャック(Calico Jack)が近い気がしました。
ジャックは、ジョン(ヨハネ)の愛称です。

ジョン・ラッカム

ジョン・ラカム(John Rackham)ジャック・ラカム(Jack Rackham)とも。大きな海賊団ではなかったラカム海賊団は、そのすばしっこさゆえに各国の海軍はなかなか捕えられない厄介な存在であったという。
ラカムの海賊旗は、黒地に、上には頭蓋骨を、下にはXに交差させた2本のカットラスを配置した特徴的なデザインで、時を超えて利用されることが多い。キャラコの帽子や衣服を常用していたことから「キャラコ・ジャック」(Calico Jack)の名で知られる。

カットラス
ジョン・ラッカムの海賊旗

ジョン・ラッカムの旗は、『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』でジャック・スパロウの船ブラック・パールが掲げる旗として登場しました。

ジョン・ラッカムは、英国王ジョージ1世に反発を覚えるジャコバイト(名誉革命で追放されたジェームズ2世およびその直系男子の復位を支持した集団)を支持していたの荒くれ者だったそうです。

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『ピーターパン』のフック船長のプロフィールは、「冷酷かつ残忍だが上流階級出身で名門校を修了している為、物腰は優雅で気品に満ちている」設定でした。
フック船長が一番尊敬する人物は、7歳の時に亡くした母親で、2番目がチャールズ2世(追放されたジェームズ2世の兄)。
チャールズ2世もジェームズ2世もカトリック寄りだったんですよねぇ。


余談ですが①

『ピーターパン』作者のジェームス・マシュー・バリーは、スコットランド・アンガスの保守的なカルヴァン派(プロテスタント)の家庭に生まれました。
スコットランドは1560年に宗教改革が起き、ほとんどの人がカトリックからプロテスタントに改宗したと思われます。

Barrieという姓は、5~9世紀スコットランドにあったダル・リアダ(Dál Riada)王国の部族に由来し、ゲール語で「荒れた草の茂った丘」を意味するborrachに由来しています。

ピーターパンのモデルになったのは、バリーが家族ぐるみで交流していたルウェリン・デイヴィス家の5人の子どもたちです。しかし、バリーと彼らの母が親しくなって・・・長くなりそうなので、この続きはまたいつか。

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3次黄金時代は、イングランド国王ジョージ1世の統治(1714年 - 1727年)とそっくり被ります。


ジョージ1世は、ドイツのハノーファーで生まれ、神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でした。
ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)。


又従妹だったアン女王が崩御し、嗣子がなくステュアート朝が断絶したため、ジョージ1世の母のゾフィーがステュアート家の血筋(ジェームズ1世の子孫)だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王として迎えられました。

ハノーヴァー朝

ハノーヴァー朝(Hanoverian Dynasty)は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。
ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家からジョージ1世を国王に迎え入れて成立した。

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余談ですが②

実は、国王の最有力候補は、アンの異母弟のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートだったのですが、彼がカトリック信徒であったため、ジェームズの即位はイングランド議会に忌避されたのです。

オラニエ公ウィリアム3世がカトリックを排除する法律を出したあとも、カトリックとプロテスタントの戦争は密かに密かに続いていました。
しかし、ジェームズが国王になれなかったため、カトリック復権の夢は消えたのでした。(ほんとに消えたと思う?苦笑)


スチュアート家の祖は、ウォルター・フィッツアラン( 1090 年頃– 1177 年)というスコットランドの執政官で、先祖はフランス・ブルタニューの騎士アラン・フィッツ・フラッドという人物です。
イングランド王ヘンリー1世によって傭兵として採用され、イングランドにやってきたと考えられます。アラン・フィッツ・フラッドは十字軍の戦いで戦死したと言われています。


シェイクスピアの『マクベス』に出て来るバンクォウBanquoは、スチュアート朝のスコットランド王の祖先と言われています。

『マクベス』の登場人物は大抵実在した人物であり、作品自体も実際の歴史を元に作られているそうですが、当時本物のバンクォウの子孫であると考えられていたジェームズ1世を喜ばせるためにシェイクスピアはこれを書いたと見られています。

バンクォウとウォルター・フィッツアランの関係については、長くなるのでこれもまたいつか。そして、もしかしたらルウェリン・デイヴィス家(ピーターパンのモデル)も関わってくるかもしれません。

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カリブの海賊のその後

18世紀前半のうちに西ヨーロッパ各国は海軍を増強し、私掠船に頼らずとも西インド諸島とアメリカ大陸の植民地を保護することができるようになりました。

私掠免許状の入手も難しくなり、海賊行為が違法になると、軍隊は海賊を駆逐し始めました。最終的にこの時代で600人の海賊が処刑され、当時カリブ海で活動した海賊の約10%に相当したそうです。
大多数の海賊が1730年以降に消滅したと言われています。


私掠免許は戦争に際して何度か発行された。代表的なものとしてはエリザベス1世がキャプテン・ドレークに発行した免許が挙げられる。
免許状を発行する国家は1792年のフランス憲法制定会議や1856年のパリ条約(パリ宣言)を経て徐々に減少し、1909年のアメリカ合衆国の発行停止をもって事実上廃止された。


しかし、19世紀のアメリカ海軍の記録では、1820年から1835年の間にアメリカとカリブ海の海域で数百回の海賊による攻撃が起こったことが記されているそうです。

ラテンアメリカの独立戦争で、スペインによっても、メキシコ、コロンビアなどラテンアメリカで新たに独立した国の革命政府によっても、私掠船の利用が広まったことが挙げられます。

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19世紀の海賊ジャン・ラフィット

当時、有名だった海賊ジャン・ラフィット(フランス・ボルドー生まれ)は、米英戦争ニューオーリンズの戦いにおいては、アンドリュー・ジャクソン将軍(のちの大統領)を助け、ニューオーリンズを守ったそうです。


1817年頃、ラフィットはテキサス州のガルベストン島に王国を設立し、「メゾン・ルージュ」(Maison Rouge)と名付けた屋敷に住み、そこを砦にしたと言われています。
数年間、海賊行為と奴隷の密輸の拠点になっていたそうですが、1821年にアメリカ海軍によって退去を余儀なくされたとき、すべて焼き払って去って行ったとか。

調べてみると、他にも興味深いことが多々ある人物でした。数回、映画にもなっていました。
1958年、ユル・ブリンナーがラフィット役、チャールトン・ヘストンがアンドリュー・ジャクソン役で主演した『パッカニア』(日本語タイトルは大海賊)など。


ルイジアナ州にはジャン・ラフィット国立歴史公園というのもあり、なんで海賊の名前を付けたんだろう?と不思議に思いましたが、ジャン・ラフィットは「義賊」とされているんですね。


ディズニーランドにある「ラフィットの船着き場」


海賊のイメージUP

こんなふうに海賊をロマンチックな英雄のイメージに白塗りしたのは、ディズニーやハリウッドだけじゃなく、1800年代初めにスウェーデン発の「ヴァイキング・リバイバル」という大ムーブメントがありました。


ヴァイキングは8世紀~9世紀の海賊です。
先日、コペンハーゲン証券取引所の火災の件で、デンマーク王家のことを書きましたが、北欧にとって「ヴァイキングリバイバル」は北欧文化の転換点になっただけでなく、政治的な意味もありました。


長くなったので、続きはまた近いうちに。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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