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ローマ*ラテラノ宮殿とプラウティ ラテラーニ

ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)は、古代においては「救世主大聖堂」と呼ばれ、ローマの多くの教会の中で最上位に置かれていました。

サン・ジョヴァンニは、聖ヨハネのイタリア語読みです。

正式名称は「最も聖なる救世主と洗礼者ヨハネと福音伝道者ヨハネの大大聖堂」というらしいのですが、長いのでラテラノ大聖堂と呼ばせていただきます。

現在のラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿(茶色の建物)


記事タイトルの絵画は、ベルナルド・ベッロット (Bernardo Bellotto)という18世紀のイタリアの風景画家による、『サン・ジョバンニ広場の眺め』(個人コレクション、1743-44)です。

ベルナルド・ベッロットの風景画はすごいです。陰影が巧みというか。
ご興味あれば検索してみてください。Bernardo Bellottoのほうがヒットしやすいかも。



ラテランオベリスク

サン・ジョバンニ広場のオベリスク(ラテランのオベリスク)は、王政ローマ時代にエジプト・カルナック神殿から運ばれ、大競技場チルコ・マッシモに建てられていましたが、競技場がなくなったので(現在は公園になっている)、1588年に現在地に移築されました。

高さ45.7メートル

このオベリスクには、十字架がついているのが特徴的です。

4世紀にコンスタンティウス2世(在位337年 - 361年)が、オベリスクをエジプトからアレキサンドリアまで運び、当初はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に設置するつもりだったようです。

コンスタンティノープルにオベリスクを建てるのは、父親のコンスタンティウス1世(在位306年-337年)が果たせなかったプランで、コンスタンティウス2世は父の望みを果たそうとしていた可能性があります。


5世紀に西ローマ帝国が崩壊したためチルコ・マッシモは放棄され、時間の経過とともにオベリスクは泥に埋もれてしまっていましたが、ローマ教皇シクストゥス5世の命令により1580年代後半に掘り起こされ、さらに十字架をつけて現在の場所に設置されました。


サン・ジョバンニ広場は、ローマの中心コロッセオから1.4キロ(徒歩20分)、バチカンからは約6キロほど離れています。
ここにラテラノ大聖堂や聖階段(スカラサンタ)があります。

ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外ですが、ラテラノ条約(1929年2月11日)によってバチカンに特別な権利が認められています。



ラテラノ宮殿とプラウティ ラテラーニ

大聖堂に隣接するラテラノ宮殿は、ローマ帝国時代の宮殿で4世紀~14世紀頃までローマ教皇の住居となっていました。

14世紀に修復不可能な火災に遭い、教皇の住居は別の場所に移り、宮殿自体は1580年代に教皇シクストゥス5世によって全面的に建て替えられました。

1309年 - 1377年の間、教皇庁がローマからアヴィニョンに移転していた「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」の間に、ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れるに任され、1307年と1361年に二度の火災にあっている。

教皇庁はローマに戻ったが、ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れ果てていたため、教皇はテヴェレ川沿いのサンタ・マリア大聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)に住むことにした。
後にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿が造られ、教皇は現代に至るまでバチカンの教皇宮殿で暮らしている。

その後の修繕や改築を経て、ラテラノ宮殿は現在はバチカン歴史博物館として使用されており、一部は教皇の代理人である枢機卿の住居アパートになっています。

クーリアの青銅の門


ローマ帝国の時代、この場所には貴族のプラウティ ラテラーニ家(ラテラヌス家)が豪華な邸宅を構えていたそうです。

プラウティア家が初めて歴史に登場するのは、紀元前4世紀半ばのコンスル(執政官)ガイウス・プラウティウス・プロクルスという人物です。
この人物の詳細はわかっていませんが、イタリア共和国ラツィオ州ラティーナ県にあるプリヴェルノの出身ということがわかっています。


ギリシャ神話やローマ神話にラテラヌスという名前の王(ラテン人の王)が出てきますが、ローマの建国者ロームルス王と王弟レムスの祖とされています。
ラテラヌス信仰は、現在ラツィオ州となっているたラティウムという地で盛んだったそうですが、ラテラヌス家と関係あるかもしれません。


紀元前60年頃のデナリウス銀貨。
表面にはネプチューンの頭が描かれており、裏面にはプリヴェルヌム占領後の
ガイウス・プラウティウス・デシアヌスの勝利が描かれています。


また、紀元前 366 年にセクスティウス・ラテラヌスという人物が、コンスル(執政官)の地位に就いており、その後、ラテラヌス家は数人の皇帝の行政官を務めました。

そのセクスティウス・ラテラヌスの子孫である、プラティウス・ラテラヌスは、西暦 65年にネロ帝に対する反乱の容疑でとらえられ(のちに処刑)、彼の邸宅と財産は没収され再分配されてしまいました。

その邸宅があったのが、サン・ジョバンニ広場一帯だったと言われています。


不名誉な貴族プラウティウス・ラテラヌス


プラウティウス・ラテラヌスは、48年に皇帝クラウディウスの妻メッサリナ(のちに離婚)と不倫をしていました。

皇帝ネロの記事にも書いた、ネロの母親アグリッピナが再婚したのがクラウディウス帝で、3番目の妻だったメッサリナが産んだ娘が、ネロの最初の妻でした。


実は、クラウディウス帝の最初の妻だったプラウティア・ウルグラニラは、プラウティ ラテラーニ家(ラテラヌス家)の出身でした。
離婚の原因は、ウルグラニラの浮気と言われています。離婚から5か月後に、ウルグラニラは女の子を産んでいますが、クラウディウス帝は自分の子どもと認めることを拒否しました。


ラテラヌス家から、ローマで初めてのキリスト教徒が出たと言われています。相関図がややこしい話ので、また別記事にしますね。


アウルス・プラウティウスの家にて (『クオ・ヴァディス』より)


プラティウス・ラテラヌスの叔父であった将軍アウルス・プラウティウス(紀元 65 年までに死亡)は、クラウディウス帝の治世の初期にパンノニアの地方総督を務めており、43年にブリタニア侵攻の指揮官に任命されるなど、クラウディウス帝の覚えが良い人物でした。

皇妃メッサリナとの不倫も、叔父のとりなしでプラティウス・ラテラヌスは厳罰を免れましたが、ネロ帝に対する反乱(元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画)に関与したときには、庇ってくれる叔父は亡くなっていたと考えられています。

このプラウティウスの家系からは、わずか8カ月の間ローマ皇帝だったアウルス・ウィテッリウス(在位:69年4月16日 - 12月20日)が出ています。



ラテラノ大聖堂


西暦307年にコンスタンティヌス1世が、マクセンティウス帝(在位:306年 - 312年)の妹であったファウスタ(西暦289年 - 326年)と結婚した際に、プラティウス・ラテラヌスの元の邸宅があった一帯を手に入れました。

その後、コンスタンティヌス1世が「ミラノ勅令」(313年)を出した前後に、邸宅はキリスト教会に寄進されたようです。

1247 年のフレスコ画に描かれた教皇シルベスター 1 世とコンスタンティヌス1世


312年頃、コンスタンティヌス1世は現在のラテラノ大聖堂の前身となった大司教座教会堂の建設を始めました。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の着工は、319年頃と見られています。

ラテラノ大聖堂が正式に献堂されたのは西暦324年で、教皇シルベスター(シルウェステル)1世によって行われ、世界の中心であるローマで最大の聖堂であることから、世界の母なる聖堂と称されました。


ラテラノ大聖堂 内部
ラテラノ大聖堂内、教皇のカテドラ。


スカラ座聖堂(Scala Santa)の聖階段


Scala Santa(スカラ座聖堂)


同じころに、ラテラノ宮殿にあった聖階段と至聖所を、宮殿の向かいにある聖ローレンス教会(スカラ座聖堂)に移築したと言われていますが、もともとそこも宮殿の一部だったのでしょう。
かつては、宮殿と回廊で繋がっていたと書かれていました。

聖ローレンスは、イタリアでは聖ペトロ(ピエトロ)、聖パウロに次ぐ人気のある聖人だそうです。


聖階段

言い伝えによると、聖階段は、コンスタンティヌス1世の母ヘレナがエルサレム巡礼で発見したと言われている、ポンテオピラトの法務官邸に至る階段です。西暦 326 年頃にエルサレムからローマに運ばれてきたそうです。

中世では「スカラ ピラーティ」(ピラトの階段)と呼んでいたとか。

もともとは大理石の階段(28段)で、実際にイエスが磔刑の前にこの階段を上がったので、イエスの血の跡が今も階段に残っているそうです。

1724年に教皇ベネディクト13世は、信徒たちが階段を跪いて上がるために大理石が著しく磨耗しているのを見て、保護のために階段を木で覆いました。
2019年4月11日に300年ぶりに覆いが取り払われ、2019年7月まで公開されていましたが、その後再び木で覆われています。


ひざまずいて一段一段祈りと感謝を述べながら上がって行くクリスチャンたち。
普通に歩いて上がる階段もあるのでご心配なく。

28と言えば、月の周期だよなぁ・・・と思ってしまう私でした。


天井のフレスコ画

地上で最も神聖な場所Sancta Sanctorum


聖階段を上っていくと、「Non est in toto sanctior Orbe locus」(地球上にこれ以上の神聖な場所はありません)と書かれた至聖所Sancta Sanctorumがあります。

ここは有料区域

 

この礼拝堂は、旧ラテラノ宮殿にあったもので、宮殿を建て替える際に聖ローレンス教会に移築したそうです。
祭壇になっている聖遺物箱は、ソロモン神殿の契約の箱(アーク)を表すものとされています。

一般に開放された礼拝堂は別にあり、こちらの至聖所でミサを捧げることができるのは教皇だけだそうです。


余談*聖ヘレナの偉業


それにしても、コンスタンティヌス1世の母ヘレナのキリスト教会への貢献度、すごいですね。
ほかにもヘレナが発見した聖遺物を祀るために、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂が建てられました。

ジェルサレンメ(Gerusalemme)は、エルサレムのイタリア語表記です。

もともとは、ヘレナの邸宅パラッツォ セッソリアーノがあった場所だそうです。
ジェルサレンメ聖堂の床には、エルサレムから運んだ土を敷き詰めていたそうで、ある意味で「エルサレムにある」と考えられていた(治外法権とみなされてた)ようです。

ジェルサレンメ大聖堂、内部

ジェルサレンメ大聖堂の礼拝堂には、次のような聖遺物が納められています。
イエスが架けられた聖十字架の木片
イエスが架けられた聖十字架に取り付けられていた札(十字架の札(英語版))
イバラの冠(英語版)の2本の棘

今日はこのへんで。最後までお読みくださりありがとうございました。

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