#08 父の余命宣告
受験予備校の授業が始まって1ヶ月経とうとした2021年9月末。
朝、いつものようにスマホのアラームが鳴って目が覚めた。
ぼやっとしたままベッドの中でスマホを見る。それが毎朝の日課だった。
今日も晴れか
いつも天気予報を見て、今日は洗濯できるな。と考えながらベッドの中で2度寝する。それがいつものパターン。そして、その日は母の76歳の誕生日だった。
あ、お母さんの誕生日か。あとで電話しよ。
そう思いながら、2度寝しようとウトウトしていた時、突然手に持っていたスマホが鳴って、びっくりして顔にぶつけた。
なんと、タイムリーにその電話は母からだった。
「あ!お母さん。お誕生日おめでとう!」
要件を聞く前にそういうと、母は、
「うん、ありがとう・・・。 あんな、ビリちゃん、どうしよう・・・」
(もちろん実際は名前で呼ばれている)
46にもなる娘を76の母は、まだ人前で“ちゃん付け”で呼んでくることにも、もう違和感はなかった。けれど、
「どうしたん?」
いつもと雰囲気の違う母の声に違和感を感じた。
「お父さんが、病気になってしもた。。。」
不安が声にあふれ出ていた。我が家は健康一家で、誰も大きな病気も怪我もしたことがない。だから、母のいう「病気」がどれほどのことかよくわからなかった。
「病気って?」
きっと大丈夫やって。そういうつもりで、聞いてみたら
「食道がんやって。ステージ4で余命1年やて。どうしよう・・・」
え・・・・?
今もまだ現役で仕事をバリバリしている父が、がんで、しかもステージ4で、余命1年!???
寝起きでぼやっとしていた私は一気に目が覚めた。
話を聞くと、喉の調子が悪かったので、かかりつけの耳鼻科にしばらく通っていたけれど、なかなか治らないので精密検査を受けたところ、普段の検査では分かりにくいところに、がんが見つかったらしい。
すぐに、週末家族会議を開くことになった。
起きて顔を洗い少し落ち着いた私は、家族の中でもっとも冷静で病院での勤務も経験していたお義姉さん(兄の奥さん)に電話をした。
幸いにも、彼女が昔働いていたのが耳鼻咽喉科だったそうで、そういった専門用語や薬などにも詳しかった。
彼女がいてくれたら安心。そう思った。
私はまったく知識がなかったけれど、とにかくインターネットで「食道がん」について調べまくった。ステージ4というのがどういう状態か、手術ができるのか。ご飯は食べれるのか、生存率は、、、
この集中力で勉強ができたら、どんなにはかどるだろうか。と思うほどに、いろいろなサイトを読み、理解しようとした。
日曜日の夜、家族みんなが実家に集まった。いつもなら、鍋とか寿司とか、豪華な食事が並ぶけれど、さすがに母はそんな料理をする気力もなく、スーパーで買ったお弁当が用意されていた。
こういう時に、みんなの空気をどうにか明るくしようとしてしまうのが、私だ。子供の頃から、どんな時も暗い空気が苦手だった。
「わー!私カツ丼〜♪ これ、私もらっていい?」
なんて、姪っ子たちに笑顔で話しながら、なんでもない風を装った。
大人はダイニングテーブルにあつまり、会議が始まった。
子供たちは、和室でゲームをしながら静かにしてくれていた。
私もお義姉さんも、もう一度これまでの経緯を聞き、そして私たちの見解を話し、これからどうしようか。という話をしていた時、父がかすれた声で
「食道がんじゃなくて、喉頭がん・・・」
と言った。ここまで、ずっと食道がんだと思っていた私たちは、一瞬あっけにとられた。
「え?お母さん食道がんって言ったよね?」
「ごめん、私よくわからへんから・・・」
と泣きそうな母。
そんなわけで、父は喉頭がんのステージ4でこのままだと余命1年だと宣告されていた。
翌日、改めて検査結果を聞きに行くというので、無理を言ってお義姉さんに付いて行ってもらうことにした。誰よりもいてくれたら安心できるからだ。そして、とりあえず結果を聞いてからだと、私たちは家に帰った。
父が死んでしまうかもしれない。と思うと急に不安になった。どうにもならない「どうしよう」が頭の中をぐるぐるして、まったく勉強が手につかなかった。
学校へ行っても、先生の話がまったく頭に入らない。言葉が右耳から左耳へ流れる感じだった。
もう、勉強無理かもな。
お父さんが生きている間に、合格できるかな?
でも、せっかくなら、合格して喜ばせたいな。
そう思いながら、何があってもとりあえず授業には出よう。と決めた。
ーこれが受験勉強が始まって早々の一大事件でありドタバタのスタートだった
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