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滝尻わさび園とは。

こんばんは。
ようやく、今回から本題の我が家のわさびについてお話しさせていただきたいと思います。

「わさび」については、まだまだ素人で、勉強中です。こうして書きながら私自身も学んでいきたいと思います。
もし、ここが知りたいと有ればコメントいただければお答えしていきたいと思います。

今日は、我が家がわさび農家をはじめてから今現在までの経緯について、私が知る限りを書かせていただこうと思います。

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我が家を見下ろす少し高台に旧墓があります。
お墓には、江戸時代の頃の年号がうっすらと読むことができます。いつ頃から住み始めたか詳しいことは分かりません。

湯ヶ島から中伊豆へ抜ける国士峠の入り口に、里山に長野地区という集落があります。
そこの地区はほぼ浅田姓なのです。たぶんそこから分かれて、今の場所に住み始めたのではないかと思います。
現に96歳のおばあちゃんもその一代前の曽祖母も長野地区からお嫁にきています。

ちなみに滝尻わさび園の【滝尻】のは由来は、我が家がちょうど“浄蓮の滝”から流れついた「尻」に位置するので、昔から屋号で【たきじり】と呼ばれてきました。

我が家がわさび栽培を始めたのは、大正時代。
先代は林業を営みながら、片道3時間かけて西伊豆町仁科峠まで歩いて行き、わさび栽培を始めました。朝暗いうちに提灯を持って出かけ、帰りにはわさびいっぱいの籠を背負って帰ってきたそうです。
当時は、現在のように整備された道路もハイキングコースがあるわけでもありません。山小屋で泊まり込むこともあったそうです。身近な土地でわさびを育てたいという願いがあったそうです。

昭和4年頃、2代目と3代目が我が家のすぐ近くで湧き水を見つけ、堤防を作り、わさび田を開墾。
昭和15年、日本が日中戦争から太平洋戦争へと歩みを進めるなか、3代目の徴兵された。
その年に仁科峠のわさび田は手放して、開墾してきたわさび田でわさび栽培を続けていたそうです。
わさびを出荷しては得たお金で少しずつわさび田を拡げていったそうです。
(当時はわさび田を専門に工事をする「石屋」さんと呼ばれる仕事があったそうです)

終戦を迎え、3代目も戦地から戻り、家族全員でわさび栽培が軌道にのってきた昭和33年。

1958年(昭和33年)9月26日の夜。
伊豆半島を襲った狩野川台風。天城湯ヶ島に1時間で120mm、総雨量689mmにも及ぶ雨が降り、静岡県東部に甚大な被害をもたらしました。
我が家のわさび田も湧き水の湧き口から5mを残し、消失。母屋も流されてしまいました。


それでも、わさび田を修復するのに約3年の歳月がかかりました。

当時は、我が家からわさび田を繋いでいる橋はかかっておらず、わさび田に行くにも山から下っていったそうです。
重機などは入らない狭い道。
すぐ横には川が流れる危険な足場。
先人達の並々ならぬ熱意と働きによって今のわさび田は作られました。

さらに昭和50年代には、川を越えて湧き水を引っ張り、自宅の周りの田んぼもわさび田に開墾、現在は約90aのわさび田を管理し、わさびを栽培しています。

1アール=10m×10m=1,00平米
90a=9,000平米

植え付け総本数は約18万本。
毎週、2回(真妻種わさびと実生わさびをそれぞれ1回ずつ)収穫し、年間2〜3tを生産しています。

今現在も毎年何度もやってくる台風、冬場の雪外など、常に自然災害と隣り合わせ。
収穫がなくても毎日わさび田に目を配り、常にわさびたちの成長を見守っています。

川の地形に合わせて計算し尽くされて作られたわさび田。

伊豆のわさび田の特徴である「畳石式わさび田構想」については次回に書きたいと思います。

最後に我が家のわさび田を以前ドローンで撮影してくださったので添付します。

https://youtu.be/UToCSJ-zZRc

また、今回は「伊豆食べる通信」で取材していただいた原稿を参考に書かせていただきました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

感謝🙏✨

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