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名盤と人 第10回 キースとの相性 「Sticky Fingers」 ローリング・ストーンズ

前作に続き、アメリカーナ路線を深めた「Sticky Fingers」。南部の聖地マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音された同作には、アメリカン・ルーツ・ミュージックの達人が多数参加。キースを中心にストーンズは彼らのエッセンスを吸収して、新しい路線をさらに深める。


聖地「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」での録音

連載も10回目となり、アメリカものが続いたので初めてイギリスのバンドを取り上げる。
『Sticky Fingers』は1971年に発表されたローリング・ストーンズのオリジナルアルバム。全英、全米共に1位を記録。
前作の「Let It Bleed」、次作の「メイン・ストリートのならず者」(Exile on Main St.)と共に、最盛期を飾る三部作として重要な一枚でもある。

『Sticky Fingers』

バンドとしての自己完結から解放され、様々な外部の人材との交流が新しいチャレンジを可能にした時期でもある。Billy Preston 、Ry Cooder、Jim Dickinson、Bobby Keys、Jim Price等のアメリカン・ルーツ・ミュージックの達人達が参加していることがこの作品を特徴づけている。

Brown Sugar

また、Mick Taylorがこの作品から全面参加。
ミック・テイラー期とも呼ばれているが、「バンドの最も音楽的に充実した時期」とミック・ジャガーも認めている時期でもある。
プロデューサーはTrafficの最初の2枚のアルバムを制作したJimmy Miller
ストーンズの最盛期はJimmy Millerと共にあるとも言える重要人物だ。

本作はまずLIVEの定番「Brown Sugar」で幕を開けるが、気になる報道も。
2021年になり彼らが「Brown Sugar」の演奏を段階的に取りやめていることを明らかにした。
歌詞の冒頭で、「奴隷として売られ真夜中にムチで打たれる女性」に言及。サビの部分には黒人女性を「ブラウン・シュガー」と形容し「君は何でそんなにおいしいんだ」と問いかけるくだりもある。

その「Brown Sugar」は南部のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(Muscle Shoals Sound Studio)で録音されている。

Muscle Shoals Sound Studio

1969年12月2日から4日の3日間、アメリカ・ツアーを終えた彼らは、アラバマ州のMuscle Shoals Sound Studioでレコーディングを行う。
前年まではあのDuane Allmanがセッションギタリストとして働いていたスタジオで、数々の名演が録音された聖地だ。
わずか3日間だったが「Brown Sugar」(Side1-1)と「Wild Horses」(Side1-3)、「You Gotta Move」(Side1-5)がこのアルバムに収められる。
本作の前半はスワンプ・ロックの本場を録音場所に選びつつも、スワンプ一辺倒にならずにカントリー、サザンソウル、ブルーズ、ゴスペル、ラテンジャズなど、アメリカーナの見本市のようなごった煮はストーンズの真骨頂となっている。

録音にはスワンパーズなどの現地のミュージシャンは参加せずに、スタジオ使用のみのレコーディングであったが、1人の現地ミュージシャンが偶然参加しており、それがJim Dickinson
Jim Dickinsonといえばライ・クーダーの『Into The Purple Valley』『Boomer’s Story』などのプロデューサーとして、またアレサ・フランクリンなどのバックを務めたピアノ・プレイヤーとしても著名。
当初Dickinsonは仲介者として「マッスル・ショールズ・サウンドが良い。ウェクスラーに電話して頼んでみたら?」と関係者に推薦し、ストーンズのマッスル・ショールズ・サウンド録音が実現する。
さらに3日目「Wild Horses」の録音中にミック・ジャガーが「キーボーディストが必要だ」と言うと、Dickinsonはスタジオのバックヤードから古いアップライトのタックピアノを探し出してきてそれを弾いてみせた。
そして偶然にDickinsonは「Wild Horses」に参加することになった。
アウトテイクのアコースティック・バージョンが、より彼のピアノプレイが楽しめる。

Bobby Keysはキースと仲良し

このアルバムからアメリカン・ルーツ路線の担い手が本格参加している。
Delaney & Bonnieを経て、参加したサックスのBobby Keys
前作から参加し始め本作からは全面的に参加し、以後はストーンズのツアーには欠かせない男となる。
そして有名なBrown Sugarのサックスソロが誕生する。
Keith Richardsは「トラックの途中で間奏部分ができて、そこをギター・ソロにすればいいのかよくわからなかった。そこでボブが『試しに、俺に吹かせてみてよ』って言い出して、やってみたら完璧なロックンロール・ソロとなったことが誰の耳にも明らかだったから。」と語る。
キースとは生年月日が同じであるため、特に仲が良かったといわれる。
「ボビーの吹き方には南部特有のノリがある。ボビーはテキサス出身なんだから」とも語っており、アメリカの南部への憧憬が彼への尊敬に結びついた部分も認めている。
「Can't You Hear Me Knocking」(Side1-4)は本来前半のボーカル部分のみであるはずだったが、後半にジャムが収められることになったのはボビーのソロの出来栄えが良かったためだったという。
後半のストーンズらしからぬ長尺のインプロビゼーションは、コンガが強烈に絡みラテン・ジャズのようで、Jimmy Millerが以前にプロデュースしたTrafficを想起させる。
後半はサックスに、ミック・テイラーのギターソロ、Billy Prestonのオルガン、Rocky Dijonのコンガとオリジナルではないメンバーの活躍で繰り広げられるのも面白い。

ゴスペルのオルガンの名手、Billy Preston

そのBilly Preston「Get Back Sessions」でのビートルズとの関係性があまりにも有名だが、10歳で既にマヘリア・ジャクスンのバックを務めるなど元々はゴスペルのオルガンの名手。
I Got the Blues」 (Side1-2)で見事なオルガンソロを聴かせる。

その後はストーンズの常連となり、1973年のローリング・ストーンズのヨーロッパ公演の前座として出演した際のライヴをレコーディングし、リリースもしている。

Gram Parsonsの果たした役割

「Wild Horses」はアメリカーナ路線の最も象徴的な曲かもしれない。
まず「Wild Horses」を先に世に出したのはストーンズではなく、1970年の「Burrito Deluxe」においてFlying Burrito Brothers(フライング・ブリトー・ブラザーズ)がリリースする。
そのリーダーGram Parsonsはキースにカントリーを始めアメリカン・ルーツ・ミュージックを伝授した人物として知られる。

(Flying Burrito Brothersの「Wild Horses」はLeon Russell がpianoを担当)

Gram Parsonsバーズに加入。そしてカントリー・ロックの名作となる『ロデオの恋人』を1968年に発表。しかし、この1枚だけで脱退し、同年元バーズのChris HillmanFlying Burrito Brothers(FBB)を結成した。
このバンドのヨーロッパ・ツアー中、ローリング・ストーンズ、特にキース・リチャーズとの親交を深め、お互いに多大な影響を与えあうことになったらしい。

Flying Burrito BrothersのラインナップはGram ParsonsChris HillmanSneaky Pete、Bernie Leadon、Michael Clarkeの5人。
解散後はChris Hillmanマナサスに加入、Bernie Leadonは結成後のイーグルスのオリジナルメンバーとなる。

Gram Parsonsはインタビューで「僕は南部で育ったんだけど、黒人のゴスペルと白人のカントリーをジャンル分けするのは違うんじゃないかと思う。僕にとってはどちらも音楽なんだ。良いか悪いか、好きか嫌いか、それだけだよ」と答えていた。
これはデラニーやLeon Russellのスタンスと同じものでFBBのWild HorsesにはLeon Russellが参加している。

「Wild Horses」を先行してリリースしたのは、FBBのメンバーだったSneaky Peteにスティールギターの音を追加してもらおうと、グラムの元にこの曲のデモテープが送ったことがきっかけ。
グラムはこのテープをいたく気に入り、FBBで録音するに至ったらしい。

Dead Flowers」(Side2-4)は、FBBのファンが彼らに花を飛行機で贈ろうとしたら途中で枯れてしまった、というエピソードを元に作られたナンバー。カントリー調のストーンズと言えばこの曲。

Flying Burrito Brothersの音楽はカントリー、ロックン・ロール、R&B、フォーク、そしてソウルの影響を見事に結び合わせたもので、まさにSticky Fingersもそれを体現している。

Muscle Shoals Sound Studioでの録音の数日後にはオルタモント・フリーコンサートも開催されている。
1969年12月6日、カリフォルニア州にあるオルタモント・スピードウェイで開催された、ストーンズ主催のコンサート。演奏中に観客が殺害される事件が起こり、『オルタモントの悲劇』の別名でも知られている。ここにもFlying Burrito Brothersが前座として参加していて、映像も残されている。

Gram Parsonsは1973年9月19日、ツアー先のジョシュア・トゥリーのモーテルでドラッグのオーヴァードーズによって他界。
セールス的には恵まれなかったが、ストーンズ等彼が音楽界に与えた影響は計り知れない。

FBBの一枚目から名曲「Hot Brito #1」

Ry Cooder

また最後になるが、この作品にはルーツミュージックの最重要人物で当時は無名のRy Cooderのクレジットも確認できるが、録音は「Let It Bleed」の時のものである。
「Sister Morphine」(Side2-3)でのスライドの演奏は彼のものであり、前作の録音でありながらRy Cooderのプレイという事もあり、この作品の一連の流れには違和感はない。
その後、Ry Cooderとストーンズは「Honky Tonk Women」のリフの盗用に関して争いとなったが、今は和解したようだ。
ライも人格者のCharlie Wattsとは良好な関係であったようで、その後に彼とは録音する予定もあったようだ。

1972年には「Jamming with Edward!」と言うライとストーンズとのジャムセッションの記録もリリースされ、和解のきっかけとなったようだ。
但しキースはライと折り合いが悪くセッションには不在である。

キースはRy Cooderとは相性が悪く、Gram Parsonsとは馬が合ったようである。

有名なジャケットはアンディ・ウォーホルのデザイン。
ミックとグループのデザイン担当で元グラフィックデザイナーのチャーリーが指名した。

Side one
1.Brown Sugar
2.Sway
3.Wild Horses
4.Can't You Hear Me Knocking
5.You Gotta Move"Fred McDowell
Side two
1.Bitch
2.I Got the Blues
3.Sister Morphine
4.Dead Flowers
5.Moonlight Mile

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