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【対談】三浦基×佐々木敦「演劇のリアリティとアクチュアリティ」(その2)〜『光のない。』(2014)CHITEN✕KAAT特設サイトより

ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて書いた長大なテキストを舞台化した『光のない。』は、2012年の初演の際、わずか3日間の上演にも関わらず観客からの圧倒的支持を得た伝説的作品です。2014年、この作品を再演するにあたって三浦自身が改めて『光のない。』について、早稲田大学文学学術院教授の佐々木敦氏と語った記事を全4回にわたってご紹介します。今回はその第2回目です。
※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの掲載ページはこちら

その1を読む

日時:2014年10月2日(木)14:45-16:15
会場:早稲田大学 小野記念講堂
主催:早稲田大学演劇博物館、早稲田大学演劇映像学連携研究拠点
舞台写真:松本久木

テキストを〈上演〉するために


地点の作劇方法について(1)

佐々木:いまですね、すごく具体的な舞台装置の話と照明の話をしてくださったんですけど、三浦さんはそういう話から入ってしまったとおっしゃいましたが、でも実際そういった問題は全てこのイェリネクの『光のない。』というテキストの文学性、言葉の持つイメージ、その背景にある様々なテーマ群というものと実はものすごく有機的に結びついていると思うんですね。ですから今の説明の中でも、実は『光のない。』の初演を見ている僕からすると、実はもう作品の中身の説明にかなり入っているなと思いました。
いま、先んじて、外側といいますか、演出の話になりましたが、地点がこの『光のない。』初演のときには俳優は5名、いまは一人増えて6人になって、今回6人でやるんですけれども、ここは地点の非常に特異なところと言っていいと思うんですが、シェイクスピアをやる時も、チェーホフをやる時も、どの戯曲でも5人でやる、そしてこれからは6人でやるということなんですが、『光のない。』のテキストは、AとBという二人の人物が、交互にほとんどモノローグといってもいいような言葉を発し続けるというテキストなんですけれども、それを5人で演じて、今回は6人で演じるという、もとの戯曲に対して、俳優の発話にそれをどういう風にトランスフォームしていくのかというところへ話を進めたいのですが。
三浦:チェーホフだとだいたい10人以上の登場人物がいて、シェイクスピアだと20人くらい。これをまあ5〜6人にする作業、これはなんとなく想像がつくでしょう。現代から見ると長ったらしいから、ちょっと抽出して短くレジュメしましょうというのは想像できると思うんですね。でもイェリネクの場合ちょっと特殊で、AとBの登場人物が書かれてあるのですが、それが本当にダイアローグになっているのか。設定、ト書きと呼ばれるようなものがほとんどないんです。
佐々木:そうですね、AとBだけが続いているという。

三浦:なので、これを何人でやるのかという問題は、ちょっと特殊だったと思います。ただ、前提を話しておくと、古典であろうと、イェリネクのような現代的なテキストであろうと、基本的には僕はいま信頼できる継続した作業ができる俳優6人、当時は5人ですが、いるわけです。で、5人とか6人でできることならやればいいという考え方なんです。もうちょっとおこがましくいうと、このメンバーでなんでもやるという感じです。イメージで言うと、地点というルールがあって、6人のルールに全てを納める。うーんどういったらいいんでしょうね……まあ、こちらのルールでまわしていくというのが基本的にはあるんです。
それからイェリネクの場合は、彼女自身が「私の書いたものは演劇のテキストであるけれども、上演のためのテキストではない」と公言しているんです。この言葉はとても重い言葉なんです。これを言える生きている劇作家というのはよっぽどのことですよ。普通は劇作家が生きていると、書いたことと違うとか、自分のイメージと違うと言う訳だけど。そういうことではないところまで、演劇の世界が行ってしまっている。ポストドラマ演劇を一言で現せと言われたらこういうことなんだと思う。そういうテキストに対して、こっちは全力でやっていくしかないというのが正直なところです。
佐々木:こちらは上演しなくてはならないほうですからね。
三浦:もう少し説明しますと、つまりイェリネクも、古典とかそれまでのタイプの演劇というものが、書かれてある記録の通りに再現されたところで、今日、息をしている観客にとってリアリティがあるのかどうかということは必ずしも保証されないでしょう、という経験をしているわけです、客席で。自分が演劇をイメージして書いた文章というのがあるのだけれども、それをどのように観客に伝えるかはやる側の人間、パフォーマーの側の問題だということを明言したんだと思います。ですから、イェリネクには、初演時も今回も会っていませんし、何のやり取りもない。もちろん著作料は払っていますけど、関係ないわけですね。そういう立場に立っている作家というのは稀有だし、尊敬できるなと思います。次に、それをどのように発語するか問題なんですが、これは見ていただかないとなんとも。
佐々木:とにかく特異な台詞というか言葉ですからね。
三浦:先ほどの短い映像を、舞台装置の説明もしましたのでもう一度そういう視点から見てみたらよいかもしれませんね。

(動画一時停止)

三浦: 「め~」というのは合唱隊の歌声なんです。
佐々木:足を出していた人たちの声ですね。台詞の他の音は、PiriPiriと合唱隊の人たちの声しかないんですね。
三浦:基本的には。あとはガイガーカウンターの「ジジジジ」という音ですね。ガイガーカウンターは音響で流しています。

(動画一時停止)

三浦:「海が海がみみみ耳水水?自らの」というのは『ゴドーを待ちながら』のラッキーのパクりです。知らなかったら『ゴドーを待ちながら』を勉強して。素晴らしい作品だから。しゃれですよねいってみれば。そういうエクリチュール、文体になっている。意味が二重、三重になっているから。吃音は書かれていないんですけれど、注釈の嵐なんですよ。これは何とかの引用であるとか、調べだしたらきりがない。

(動画一時停止)

三浦:これはね、普通に言ってくれって言っています。
佐々木:普通にって(笑)
三浦:身振り、指を指すジェスチャーに、ここは重きを置いているわけです。

(動画一時停止)

三浦:今のが先ほど説明した、PiriPiriです。ここの台詞も普通にしゃべっていますけど、マイクという電気を通してしゃべります、この後このままずうっとしゃべると飽きるので、(三浦マイクから口を離して)「電気が通っていないので、大きい声でしゃべります」という演出を入れます。(マイクを口に戻して)というような操作によって「聞いている?」ということになるんです。ここに感情が伴う。なんであいつら普通にしゃべらないんだと受け取られるんですけれども、動機としてはこうした手順を踏んでいるわけです。

(動画一時停止)

三浦:今のシーンではヘリコプターの音響が流れています。電気を通して効果音として流れるので、とにかく俳優は叫ぶしかないね、ということです。もちろんヘリコプターの効果音を流せとは書いていないんです。でも、ここは文章的にも内容的にも、原作でもクライマックスに近いわけです。その場合、演出としては叫びたいわけです。何が何でも、とにかく叫びたいシーンなわけです。そのために、ヘリコプターを出す。そうすると喧嘩できるから。蛇口をひねれば水は出るんですけれども、蛇口をひねったら、上からシャワーが出るとか、回路を沢山つくる。そのことによっていろいろな感情が同時に爆発するようなことを資質としては好んでいるんだと思います。
文章を読んでいる本読みの時点では、ここは感情のピークであると感覚を持っているんです。それは一般読者といっしょですね。それをどういった手管を使って提出するかっていうときに、演出のやる作業というのは、なにがなんでもヘリコプターということ。一番最初に音響スタッフのチーフに、今回はヘリでいきますのでよろしくと伝えるわけです。で、音響のチーフはヘリの音を10種類持ってくるわけです。どれがいいですかと。ということが作業としてあって、それを組合せたときに、みんなが想像していなかったものが出来上がったときに作品というのはぐんっとあがっていくわけです。
『光のない。』という作品は震災から間もなく、すぐに上演したし、観客のなかにもコンテキストが出来上がっていたし、迷いもあったし、怖さもあったし、後ろめたさもあったんですね。そういった緊張感の中で奇跡的にぐんっと形になってでたというのが、正直なところ。手前味噌ですが、これは場外ホームランであると。僕が打ったというよりも、誰が打ったかわからないけれども、球が遠くまでいっちゃった。もちろん観客の力でもあるわけですが。そういうことだと思います。

第3回につづく


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