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【第58話】キッシュが冷たくなるまえに (朝のモノローグ)

 早朝の国道をひとり車を走らせている。眠れない朝にすることと言えば、10代20代ならばジョギングで汗をかいてシャワーを浴びてすっきりなのだろうが、さすがに30を超えるとなかなか運動する気力も失せて、つい車に乗ってしまう。天気は晴れ、湿度は高くなく気持ちのいい朝だ。海沿いの道を窓を開けて流れ込む風は、潮の香がしてやさしく僕の前髪を揺らしてリアシートに抜けてゆく。時折見かけるコンビニの配送車と、老人が運転する軽自動車が新聞配達をしているのを見かけるだけで、いかにも地方都市の朝のラッシュ前の風景だ。こんな天気の早朝ドライブは、出来ることなら会社を休んで、このまま車でどこかに走り去りたい気分になる。岬のコーナーを曲がり終えると潮風が強くなってきた。ここで登り坂は終わって、長い下り坂に入ると、眼下には小さな港に漁が終わった漁船が港に向かっているのが見える。ギアは三速そのままで、エンジンブレーキで回転数の上がったエンジン音が唸りをあげながらプジョーはコマネズミのように下りのワインディングを駆け降りてゆく。
 
 製造されて20年を超えている我が愛車、プジョー206は5ナンバーのフランス製の小型自動車で、発売された90年代後半から2000年代初頭には日本でも結構売れていたらしい。当時の本体価格が180万円からスタートしていたのと、それまでデザインをしていたフェラーリなどのデザインで有名なイタリアのデザイン会社であるピニン・ファリーナからプジョー本社のデザインに変わり、エッジの効いたシャープなデザインから、ピニン・ファリーナの意匠を汲んでさらに曲線を加えたエクステリアが、程よく「可愛い」かったことが日本の女性にも受けて、街中でもよく女性が運転する姿をよく見かけたらしい。5ナンバーでコンパクト、パワーはそんなにないが重量が軽くてキビキビとよく走り、サスペンションが適度に柔らかく、疲れにくいシートと相まって乗り心地がいい。ハンドルや車体から伝わってくる印象はソフトで、軽い印象である。意外にも直進安定性がよくて、長距離も苦にしない。柔らかいところと質実剛健なところが程よく融合されている。内装がプラスティッキーで安っぽい、時間がたつと天井に貼ってある生地の接着剤がダメになって垂れてくるなどの軽い欠点はあるにはある。AL4というフランス製のオートマが不安定という大きな欠点を除けば、飲食店に例えると「安くて、そこそこ美味しくて、お腹いっぱいになる」大衆食堂みたいな車だ。多少清潔感に欠けるかもしれない、すべての料理が美味しいわけじゃない、しかし欠点を飲み込んで釈然とすればいいだけで、欠点を上回る長所があればいい。評価する5項目をあげてレーダーチャートを作り、大きな正五角形を描くだけが価値のすべてじゃない。歪な五角形でも突き抜けて素晴らしいところがあればいいじゃないか。はるかさんが正五角形を描く完璧な女性だなんてこちらが勝手に思い描いた幻影で、凪人と一晩寝たぐらいであたふたするなんて・・・。早朝の潮風を受けながら自分なりにだした答えは、まあ凪人と寝たっていいじゃん、凪人と長期間付き合える女なんていたためしがないじゃないか。そのうちチャンスは巡ってくるだろう。

 潮風がどんどん強くなってきた。入ってくる潮風を後部座席側から抜きたいと思っても、この廉価仕様のフランス車の後部座席のウインドウが手動式で、運転中に窓を開けることが出来ない。ま、しょうがないかとあきらめる。こんな欠点くらいでこの車を手放したりしない。しかも長年の使用によってリアのドアのパッキンが収縮して痩せてしまい、冬場になり温度が下がって金属が収縮すると、リアのドアとパッキンの隙間が広がり雨水が車内に漏れてきてリアマットがべっとり濡れてしまう。これを今年の冬前になんとかしないといけないと思いながら、コーナーを次々と抜けてゆく。まぁ放置でもいいか、別に潔癖症でもないし。

 欠点に目をつぶっても行きたい店がパリのグラン・ブルーヴァール駅近くにある。僕の大好きなフランス料理店ブイヨン・シャルティエ。「安くて、味はそこそこで、確実にお腹いっぱいになる」そんな店だ。そして来た事をけっして後悔なんてさせない。「マヨネーズは自家製です」って言ってるけど、内心「ホントか?」と正直疑っている。ボロネーズのパスタがどう見ても茹でたてじゃなく、時間がたってゴムのように固まっていたのを見たことがある。正直自称グルメの奴にはお勧めはしない。しかし木製の回転ドアをくぐると、昔は兵器工場だったらしく体育館のような大箱のフロアが広がる。天井が半端なく高くて解放感があり、壁にはアール・ヌーボー様式の壁飾りと大きな鏡がエレガントさと解放感を醸し出していて、丸いすりガラスのレトロなシャンデリアがいくつも天井からぶら下げられていて古き良きベルエポックの時代の雰囲気を味わえる。今やパリの観光地と化しており、ウエイター達のほとんどが英語が使えて、安い金額で食事をすませたい観光客とパリジャン達の行列が凄まじい。オープン直後に入ってウエイター、ウエイトレスの黒ベスト、白シャツに蝶ネクタイでキビキビかつエレガントに動く様に見とれていると、広い店内があっという間にいっぱいになるので、有無を言わせず相席でガンガン客を詰め込んでいく。そんなガサツさと合理的なところがいかにも観光地っぽく、同じテーブルにフランス人とアメリカ人観光客が同席などは当たり前で、相手合わせて英語とフランス語でオーダーを取るのを眺めながらカラフェの安いIGPペイドックのワインを飲むのが好きだった。食べ終わると客はみんな満足そうな笑顔で帰っていく。確かにここでしか味わえない雰囲気がここにはある。

 シャルティエの事を考えていたら腹が減ってきた。そろそろ家に帰るとするか。港の駐車場に入り、Uターンをした。朝飯何を作ろうか?たまにはバゲットでも買って帰ろうか?そんなことを考えながら国道にでて今来た道を戻りはじめた。

 
 

 




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