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「見ている自分」を見落としている。

教育に携わっていると,時々来る質問に「授業を見学してもいいですか?」というものがある。

授業見学は私としては特に問題ないので良いのだが,子供はどうなんだろうと思うことがある。見に来るほうの理由は様々だ。「この先生は信頼できるのか?」「子供はちゃんと受けているのか?」「単純に一回見てみたい」などがあると思う。

見にくる側は(神妙な面持ちで)気楽に見ようとするが,ここで抜け落ちている発想がある。それは「自分が見ることで授業がどのように変わるのか」である。

例えば教師と生徒の一対一の空間であれば,そこでは教師と生徒の間の関係性が新たに結ばれる。お互いがそれまでのいろんな背景を持ち寄るので,最初はぎこちないことも多いが,期間を経るごとに段々と近づいて(あるいは離れて)いく。

一面しか持っていない人は私の知る限り存在しない。家の私,学校の私,会社の私,友人といるときの私など,様々な「私」を持って生きている。それぞれの「私」はその場や対面する人によって姿を現す。

たまに家に着いても,意識は職場に置いてきてしまい,うまくリラックスできないことがある。こういう時に「臨場感」というのはすごいなあと感じる。物理的に目の前に私の部屋があっても,職場に臨場感を感じている。物=「カタ」は得てして強力に作用するが,時として記憶がそれを超えることがある。

話がそれた。だから,二人の場を作るものだから,二人でいるときの関係性=「私たち」が構築される。恋人同士や夫婦を想像するともっとわかりやすい。

あるいは人でなくても,身の回りの物との関係性でも良い。場づくりの重要性もわかるのは,いかにも職場らしいところで,自分のデスクだけは仕事と関係のない好きなものを置きたがる人が多いことだ。これで生産性が上がるという研究があるようだが,わざわざ証明しなくても昔から皆やっている。

風水などに関心があるのもそういうところとつながっていると思う。人はいろんな面を持っていて,身の回りの人や物の影響を受けて,ある方向への特性(側面)を強化しようとする。あるいは,無意識に影響を受けてある方向へと進みやすくなる。


勘の良い方はここまでの話で冒頭の授業見学の話とどのようにつながるかがわかったかもしれない。見にくる人がいるということは,場に人が増えるということである。

一定の閉鎖空間で一人増えて,意識しないということはほとんど不可能である。多少の差はあれ,教師にも子供にも影響が出る。教師がよほど慣れていればそれをポジティブに変えることができるだろうが,慣れていないとネガティブに作用することもある。

私自身はある程度慣れているので,あまり気にならない。気になるのはここで書いているようなことである。

教師が慣れていても子供はどうだろうか。先ほども言ったが,親がいるというのは,半分家の空気がついてくるようなものだ。子供が親の前で影響されずにいられるだろうか。気軽に発言できるだろうか。

もちろんほとんど影響のない生徒もいるし,逆に明るくなる生徒もいる。が,これはレアケースで,そもそもそういう子供に親はついてこない。

たとえば年間の授業の初期段階で影響が発生するなら,関係構築に待ったがかかる(関係構築を支援してくれることもあるかもしれない)。途中ならば(このケースは大体教える側に問題があるが),関係性にひびが入る(改善のきっかけを与えてくれる)。いずれにしても何らかの影響が出る可能性が高い。


これが問題だと言いたいわけではなく,そういうものではないかと考えてみるのもおもしろいかなと思っただけである。授業に限らず,こういうことは様々な現場で起きていることだと思う。いわゆる「監督」が良い例だろう。

授業参観などのほとんど一回性のものであれば,教師も生徒も何とかやり過ごすこともできるし,クラスの活性化のきっかけにすることもできる。さらに良い方向にもっていくことも可能だと思う。

しかしながら,中にはほとんど毎回のように見に来ようとする親もいる。それでいて授業自体に何も不満はないのだという。そうなると逆に親の方を心配してしまう。子供の方は家と教室の両方に気を遣い,ほとんど学びどころではなかったこともある。


「学びは真似び」とよく言っていた小学校の先生を思い出す。良い言葉だなと今でも思う。真似をするにはまず吸収する姿勢が作れないと無理である。吸収する姿勢はリラックス状態から生み出される。だが当のその先生はずっと怒鳴っていて,アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるようだった。

リラックスできたら,教育の場ではそこで行われていることに意識を傾ければいい。要は真似れば良い(知識伝達がメインなら)。言葉にすると簡単だが,難しいのは承知している。

だが,少なくとも教育のための「場」は用意してあるので,学びやすい環境にはなっている(逆に言うと,リラックスして他に意識が行く場では難しくなる)。そこに「家」が入ってくると,ブレ始めても何もおかしくはない。


ここまで考えてみると,教育の現場に限った話ではないが,様々な想いが交錯していることがよくわかる。「学力」にまつわる様々な数値を結果として求めるとしても,細かく考えていけばいろんなものがまとわりついている。

そしてその「まとわりつくもの」に自分が含まれていることは見落としやすい。ここでは子供の「学力」を心配する「親」が自分を見落としているのではないかということについて考えた。

ここに悪者は登場していない。ただ様々な想いが交錯しているだけである。それが望んだ結果を手に入れるかどうかに多少なりとも影響する気がしたから,どうしようもないだろうが一回考えてみたに過ぎない。

逆に考えれば,そのまとわりついたものを正しく認識していけば「できた人間」になりそうなものだが,それを解明する前に骨になってしまいそうだ。やはり何も考えず,何も気にせず勉強するのが手っ取り早い。

そして子供を信じて没頭させてあげてほしいし,その信頼を得られるような人間になる努力をしていくことが当面やるべきことだろうと思う。


余計な追記
リラックスが大事と書いたが,おもしろいもので,なかなか答えが出ない生徒の中には,集中しすぎて机に顔が近づいてしまっている人も多い。そうすると物理的に視野も狭まるので,思考も狭くなってしまっているようだ。体を起こすだけで見えていなかったものが見えて案外簡単に解けてしまうこともある。姿勢と思考の関係はこんなところにも表れているのかもしれない。

書いていて,アフォーダンスは経営学にも出てきていたが,スルーしてしまっていたところなので,心理学と合わせて関心が少し出てきた。あと縁と因果(メモ)

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