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あの世への旅立ち

「今日の0時を以って、あの世に旅立つ」

四十九日って、そういう日なんだそうです。
「四十九日までは、故人は亡くなったことに気付かず、夢うつつの状態。
まだその辺にいるんですよ。
よく軒先あたりにいると言われています。」

今日は父の四十九日でした。
お経をあげにきてくれた和尚さんから、そんな法話を聞きました。

そうなのか。
お父さんは、まだ自分が死んだことに気がついていないのか。
気がついた時、どんな風に思うのかな。


今日は併せて納骨も行ったので、父はこの家から本当に旅立って行きました。
お骨と言えど、いなくなるのは淋しいものです。

昨夜「あ、最後にフルート吹こう」とふと思いつき、今朝、父のお骨の前でお別れのフルートを吹きました。
音楽というのはもともと祈りのために生まれたものです。
私はスピリチュアルなものはあまり信じていないけれど、音楽、音というのは空気振動という物理的現象なので、その作用があるのではないかと思っています。
果物や野菜を育てている時にモーツァルトを聴かせると良く育つ、という話がありますよね。
だから、お骨になった父にも何か届くものがあるんじゃないだろうか、そして、スピリチュアルな話にはなるけれども、魂というものがあるのなら、きっと父にも伝わるだろう、そんな気がするのです。

そして、祈りのために始まった音楽は、その後、病気の治療にも使われるようになったという歴史もあります。
【音楽療法】の始まりですね。
今は、福祉の分野で使われている音楽療法ですが、大昔はガチの医療として使われていたのです。
何かしらの効果があったのかどうか、今となっては調べることはできないけれど、人の心理に作用することは確かです。

火葬の前の日、棺で眠る父のために吹いた時は、母が号泣しました。
【言葉】も感情を引き出すものではあるけれど、【音楽】はもっと潜在的な部分を刺激するようです。
我慢していたこと、忘れていたけれど引っぱり出されてきた思い出たち。
感覚を刺激するものは、記憶と結び付きやすいみたいです。
呼び起こされて、溢れ出る。
【言葉】ではできないことなんだろうな、と実感しました。

昨日は、自分のために吹きました。
父が亡くなってから、あまり悲しみや淋しさに暮れる暇がありませんでした。
押し寄せる諸手続き、子ども達の新学期も重なり、加えて長男の登校渋りなど、いろんなことに追われて慌ただしく過ぎて今日まで来たなという感じです。
あと、正直、悲しみが吹っ飛んでしまうようなこともあり、私はちゃんと喪に服せていたのだろうか、と疑問です。

でもとにかく、私は父が大好きだし、感謝しているので、自分にできることで父との別れをしよう、そう思ったのでフルートを吹きました。
フルートを吹きながら遺影を眺めて、父が「ありがとうね。淋しくなるね。後のことはよろしく頼むね。」と言っている気がしたので多分本当にそう言っているんだと思います。

父がお骨になってから、実家に来た時はいつも遺影の父と会話しました。
子どもたちを怒った時、父は「あんまり怒るな」と言っているだろうなと思いながら、「でもさお父さん、大変なんだよ。」と言いながらお線香をあげました。

今日、フルートを聞いた父は、喜んでいたと思います。
そして、そんな風に会話しながら、音に自分の気持ちを乗せて父に届けられたことは良かったし、多分周りで聞いていた家族たちにも何かしら思うところがあっただろうと思います。

それでいいんです。

【言葉】にならない何かを感じながら、【音楽】に癒される。
そして今、【言葉】で自分の気持ちを書き綴りながら、自分の気持ちと考えを認識する。

考えてみれば、私は今日初めて「自分のために吹く」ということをしました。
そして初めて自分で自分の音に癒されました。



お骨であっても家にいてほしかったけれど、父が天国に行くためにはそうもいかない。
そして、納骨の際に見たお墓の下の祖父母の骨を見て、「ああ、これで父は淋しくないし、おじいちゃんやおばあちゃんも我が子と一緒になれて嬉しいよね。」と思いました。
私はこれまでお墓の重要性をあまり感じていなかったけれど、お墓というものは死後の「家」なんだなと思ったら、また考え方も変わりました。

私に、「音楽」という手段があって良かったです。
想いを【言葉】以外の方法で表現できることができて良かった。
私も息子同様感受性が強いので、自分の中から溢れ出る感情をとても言葉だけでは発散できない。


お父さんに、生きてる間に聞かせたかったよ。
でも、天国に行く前にお父さんのための演奏ができて良かった。
何度もやめようと思ったフルートを結局やめられず、細々ながらも続けてきた意味はここに繋がったんだなと思っています。
私は自分の音楽は「死」のためにあるような気がしています。
免れることのできない「死に向かう命」を癒し慰めるために、亡くなった故人の魂と遺族や周りの人を癒し慰めるために、そして、前にも書いた「幸せな死」へ向かうための生きている間の人生を充実させるために、私の音楽は在りたいと思っています。


こんなこと考えて音楽やってる人は多分いない。笑
自分でも「変なの」と思うけれど、父が亡くなって棺の前で演奏し母が号泣したあの時、私の中で全てが繋がった気がしました。
「ああ、私はこのために音楽をやってきた、そしてこれを伝えていくのが私の使命だったのだ」
と、神のお告げレベルで思いました。


私のフルートの音はよく「癒し系」と言われます。
私は癒し系な人間じゃないから自分ではそんな音出せないと思ってたし、決してそういう音を目指していたわけではないのです。
それに、実はピアノの方が好きで、ピアノをがんばりたいと思った時期もあったけど、褒めてもらえるのはなぜか大して練習もせず嫌になっていたフルートの方。
褒めてもらえると言ってもバリバリにクラシックの演奏ができるわけではなくて、簡単な歌謡曲を吹く程度ですが、でも喜んでもらえるのです。
なんだかなーと思っていたけど、これが私が授かった「才」なのでしょう。


今日は自分のために書いたnoteだな。
まもなく0時。
今日は父が旅立つ0時まで、起きていたかったのでした。

お父さん、ありがとう。
もう会えなくて淋しいけど、これからフルートを吹く時は、お父さんのことを思い出すんだと思う。
フルートを勉強するために、たくさんサポートしてくれてありがとう。
無駄にならなかったよ。
大好きだよ、お父さん。
また来世でお父さんの娘に生まれたいな。
天国でいっぱい楽しんでね!



ここまで読んでくださった方も、本当にありがとうございました。
書いてスッキリ!


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