カタルシス、というもの。羽生結弦選手『GIFT』によせて

羽生くんの成熟したスケートを見ることが出来る今日、彼の芸術に惹かれた男性の羽生結弦ファンなどというのはさしてもの珍しい存在でもない。自分はその中の一人。

2023年2月26日、『GIFT at Tokyo Dome』。
フィギュアスケーターとしては史上初の東京ドームでの単独アイスショーが開催された。東京は雲一つない晴天の青空だった

羽生結弦の『GIFT』はどんなIce Show でしたか?と誰かに問われたら何と答えるか。とてつもない。一秒たりとも手抜きがない。圧倒的だ。基礎がしっかりしている。賢明でユニークだ。羽生結弦は古代ギリシアの英雄アキレウスのようなしなやかな鋼の筋肉を持っている。彼のスケーティングは魔法。曲に対する解釈は信じられないものだ。そして、、、胸が塞がれる気持ちもあった


プログラムの後半部分。繰り広げられる羽生くんの内省的な語り。彼と彼の夢との対話のシークエンスは辛かった。実際、羽生くんが現役の時からインタビューを通じて度々吐露してきた悩みをどう受け止めたらいいのか、僕自身悩んで来た。どうしてそのようなことを言うんだ、と思ったときもある。今も答えは出ない。僕らファンに対して何かを期待して言ってるわけでは無いと思うけれど、じゃあ、素通りして、とりあえず、それは一旦棚に置いておいて彼の圧倒的なスケーティングを見て、彼の演技に酔いしれて、彼の演技から貰う感動を糧に今を楽しく生きましょう。

これがいいのかとも思わなかった。
成功者の懊悩ほど疎んじられ、他者から理解されず、孤独なものはない。

僕は大学時代から社会人になり会社に勤めている現在に至るまで、およそ20〜25分かかる最寄りの駅への通学と通勤の行き帰りの間、羽生くんの演技を見るため聴くためにイヤホンを耳に通してきた。
彼の演技を目と耳で何度も何度も接して見たせいか、今や映像を直接見なくとも頭の中でその演技が自動再生されるほどだ。

こうしてスルメのように彼の演技を咀嚼して励まされている人間がいるよ。
羽生くんの演技を忘れずにいることが自分なりの彼へのエールと開き直るしかない

ショーは素晴らしいものだった。こうして数日後に暗鬱とした気持ちが残ったことも含めて。
その雑感だけ記しておきたい

開始序盤からの、やや冗長な語りを羽生くんも構成者も恐れない。何故か?どちらも羽生くんのスケーティングに対して圧倒的な自信を持っているから。焦らして焦らして待たされて待たされて、そして爆発するとき、感動は増大しカタルシスが生まれる。
羽生くんの声から発せられる言葉はよく選ばれ、よく整理されている。だから言葉が耳に入ってくる。語りの間合いの取りかたによって詩を朗読してもらっている気分にさせられる。そしてホントに飾り気がなく羽生くんの人柄が滲み出るような、朴訥な彼の語りは最高だ。

この『GIFT』の見どころの一つ。それは背景のVCRによって羽生くんがこれまで滑ってきた傑作プログラムの奥行きが増すということだ。「Hope & Legacy」では生命の誕生と人間と動物たち、月や太陽をも内含する壮大な自然との関わりのようなことが語られる。これまでは羽生くんの氷上での演技と衣装と、残りは自分の想像力で補っていくしかなかった。長年探していたパズルピースが埋まっていくみたいでこれは楽しい。「Hope & Legacy」は「SEIMEI」や「オペラ座の怪人」等と比較してもある意味夢幻的なプログラムだ。「Hope & Legacy」が持つ偉大な抽象性は抽象性のまま留まる。「Hope & Legacy」の衣装が持つあの鮮やかな緑と青はまさに空気の澄んだ森林や綺麗な海を想起させる。その拡張。

「あの夏の日」
ここでこの名曲が不意に現れるなんて。最初のピアノの柔らかい一音が粒立った瞬間、うわあ、という声が出そうになった。「あの夏の日」はプロスケーターとなった今の羽生くんとも重なる。真っ白。まだ何も生まれてない。リンク周辺に配置されたELEV ENPLAYさん達が表現する、白い膜に覆われたものは何だろうか。成虫になるまえの蛹か母胎でスヤスヤと眠るまだ生命体となる以前の生命体か。羽生くんの美しい滑りにここで涙腺が既にボロボロと来る。右脚を斜めに上げ、リンクを右周りに旋回する姿は・・・ヤレヤレとため息が出るほど美しい。
「あの夏の日」が『GIFT』だけに留まらず、再演されることを願うばかり。

羽生くんはよく氷上の絶対王者と呼ばれることがあるが、ショパンの「バラード第1番」の佇まいはまさに彼の静かだがこの世界での圧倒的な存在感を象徴している。

「満天の星空が照らしてくれた」

「風が教えてくれる。君が進む方はとても大変だよ」

「僕は分かっている。貴方が向い風だとしても、貴方は優しい」

「たとえ今は苦しくても、きっと寒い日には、暖かくしてくれる。暑い日には、冷やしてくれる。それが、貴方でしょ?」(この貴方でしょ?がアナタでしょ?になってて思わずクスッと来た方も多いのではないでしょうか)

「風の強いほうを選んで進んでいく。そんな僕に、風が言った。そのまま進んでおいで。君の夢は・・・叶うよ」

一つ一つの文章が示唆に富んでて羽生くんが恐れを知らずに邁進していた時期が思い出される。

この後、画面上に光の集合体からバラード第1番の羽生結弦が立ち現れる。この一連の演出は鳥肌もので正直、冒頭の火の鳥や阿修羅ちゃんよりもよっぽどメディアに取り上げてほしいところなんだよ、とボヤき。

VCRでは敢えて陸上練習のバラード第1番だったのも良かった。バラード第1番を滑る上で欠かせないであろう羽生くんのバレエの素養を見ることが出来たから。


羽生結弦はこれまで同様に新しい次元に突入、新境地を開拓した。プログラムの発現の仕方。アイスショーならではの演出によって今までは線と線だったプログラム達が点となって、一つの作品となった。

僕は砂漠期はそのまま砂漠期として受け入れ、他のことに夢中になり、フィギュアのことは束の間忘れているような人間だけれども、度々このジャンルに連れ戻されてきたのも羽生くんが発する強すぎる磁力のようなものにその都度圧倒されてきたからだ。
『プロローグ』は競技会からアイスショーに移行するにあたっての通過儀礼のようなものだったと理解している。既に魅力的でユニークさも垣間見えたけれど、粗さもあった。

『GIFT』は完璧な「作品」として羽生くんが提示してきたものだ。

これまでのアイスショーとは似ても似つかない、最初の1秒からフィニッシュポーズまで、完璧な意志の透徹を試みてきた羽生くんの演技プログラム、エキシビジョンのプログラムが今度は2時間30分を超える超大作に拡張された形で現れたのだ、と言ってもいい。

粗の消し方。

羽生くんは粗の消し方の達人だと個人的には思っている。

例えば「Origin」という凄いプログラムがあった。
けれど、ISUのルール変更初年度のプログラムだったことにより煽りを喰らったほろ苦いプログラムであった、とも言える。

ルール変更とは言うまでもなくフリープログラムの時間が4分30秒から4分に短縮させられたことだ。

「Origin」というプログラムの難しさはジャンプの実施にあった。stpsqに入る前の、前半にクワド2本、後半にクワド2〜3本を含めた計5本のジャンプを飛ばなければならないという演技構成により、結果として後半の体力消耗が激しくなったことと、どうしても後半がジャンプ偏重になりやすい印象になりがちであり、ISUの審判員に付け入る隙を与えることになった。

羽生結弦はその後に作られた「天と地と」でこの問題を見事に修正してみせた。

「天と地と」では前半に2本のクワドと3アクセル、そして3アクセルの後にすぐ3フリップを食い込むことにより、後半へのジャンプへの負担を軽減する。これにより羽生くん本来のシームレスな演技の息吹が復活した。

アイスショーにおける最大の問題も同様にジャンプ消費にあったと言っていい。羽生くんは『GIFT』で2時間30分越えのIce Showのなかで11のプログラムを滑った。

確かに羽生くんは人間離れしているが、11のプログラム全てでジャンプも含めたテクニカルエレメンツを漏れなく実施するのはたとえ宇宙人であっても不可能だ。

かといって、曲を途中から開始するとそのプログラムの芸術性を損なうことになる。

ジャンプはやはり、フィギュアスケートの華であり、スペクタクルである。ジャンプの前の緊張感はたまらない。

その緊張感は置き換え可能か。可能だよ。と答えてくれたのが羽生くんの『GIFT』だった。それはVCRでのユニークでプログラムに合致した映像によってである。これにより間隙の淀みがなくなり、観客も映像に魅入ることによって、スペクタクルは増し、演技に対する感動はより一層深いものになる。実際、今回の『GIFT』で満腹感を覚えて帰路についた人は多々いたことだろう。1日限りの公演になってしまうのも納得の渾身の演技群だった

当然、これらは全て羽生くんのフィギュアスケーターとしての実力に依ったものであり、自分は申し訳ないことに他のスケーターの方々のアイスショーを見に行ったことでないので比較は出来ないけれど、羽生くんが『GIFT』で見せた質と量は到底真似できるものではない鬼気迫るものがあった。

『GIFT』をこれからの羽生くんのアイスショーの基準にしてしまうのは無理がある。まさに一世一代の演技だったと言えるから

これまで自分は羽生くんの演技のなかで、奇跡と呼べる演技を幾度か目撃してきた。

正直、『GIFT』を見るまではまた羽生くんのアイスショーのなかで同じような感動に出会えるのかな、と半信半疑だった。

「アイスショーでも競技会同様の緊張感を皆さんに味わっていただけるような演技をしたい」

このような趣旨の言葉を羽生くんは決意表明の会見の場で発言された

僕はこれに懐疑的だった。競技会ではやはり他者性があることがモノを言う。他の優れたスケーターと競争し、それに勝った演技を見せてくれたとき、見ている僕らのカタルシスは最高潮に達する。

また羽生くんの場合は、ISUやJSFに対してアウトロー気味な立場を、何故かとらされていたので彼らの採点を打ち破っての勝利はまさに何物にも代え難いものだった。

プルシェンコも競技会の悦びは競技会にしか無いとどこかで言っていた。

羽生くんはこれらの既成概念を『GIFT』において打ち破った、と言いたい。

「Hope & Legacy」、「あの夏の日」、「バラード第1番」を演技し、otonalの抒情的な音楽とともにアニメーション映像を流したあと、羽生くんは競技会の場に立った。

他者と競争しているわけではない、この演技が採点されるわけでも表彰されるわけでもない。

それでもあのとき、確かに競争は存在してて、東京ドームに集まったファンの皆さんの間で、祈るような気持ちとこれまでの競技会に勝るとも劣らないドキドキする緊張が流れていた

「これが羽生くんの言っていたことか」
と、痛感させられ、彼の優れた知性に感銘を受けた。

どうして、そのような気持ちにさせられたのか、分析するのは野暮なことだけど、僕個人に限って言えば、「この作品を傷一つつけることなく完成させてもらいたい」という切なる願いがあった

それまでの3つの演技(演出も含まれる)が余りにも素晴らしかったからか、その積み重ねによって、僕の心から自然と湧いて出た感情だった。映画同様、シーンを積み重ねことによって発生する、古典的な編集効果のようなものだ

羽生くんがすべてのエレメンツを終えて、天井に向かって右手の拳を突き上げたとき、僕のなかでこれまで経験したことのない新しいカタルシスが生まれた。同時にこれは羽生くんのスケートがこれから人々に届ける新たな感動の形だと感じた



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