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「外国人」という言葉の裏にある意識

トロントからモントリオールに引っ越して
早11カ月。
もうすぐ1年が経とうとしている。

モントリオールに引っ越してきてから
何度も何度も考えさせられること。

それは、
「世間の狭さ」「無知」
という現象について。

久々にこのことについてふと考えが巡ることになったのは
ある言葉がトリガーとなったことは間違いない。

"foreigner" という言葉はあまり聞かない

英語学習コーチングをしていて
気付いたことがある。

クライアントさんが
度々、文章の中で
「foreigners」という語を使うこと。

おそらく日本語の「外国人」という語を使うために
きっとわざわざ辞書などで調べて
「foreigners」と表現しているのだと思う。

きっと私が北米に20年も住んでいて
しかもトロントという移民大都市に長く住んで
意識的にこういった問題に敏感だからというのもあるだろう。

北米社会の英語圏で
「foreigner」という語を使う時、
それは、「よそ者」という意味合いが強い。

では、日本人がよく使っている
「外国人観光客」だとか「外国人」という意味の語は
一体、どういう表現がされるかと言うと

  • tourists(観光客)

  • visitors(国外から来ている一時滞在者)

  • immigrants(移民)

そして、
「こうした表現を北米社会では使うことが多いですよ」
というガイドをした後で、ふと思う。

何気に使っている言葉に
差別意識や排他的な意識が宿っていることを。

ちなみに、"foreign" という語を使う時、
その語には
「馴染みがない、場違いな、違和感のある」
といったニュアンスが含まれる。

つまり、北米で英語のネイティブスピーカーが
"foreigner" という語を使う時、
その語には
「私たちの社会には相容れない、違和感の存在」
という意味合いがあるかもしれないということだ。

「外国人」という意識

「外国人はよそ者だから、それの何が悪いの?」
そういう認識の人もいるだろう。

ただ、近年、北米社会は
どちらかというと道徳的に
inclusiveness (多様性を認め受け入れる)という流れを推している。

そういう社会的、道徳的な流れからすると
「よそ者」という言葉は
非常に排他的な意味合いを持つ。

つまり、
inclusiveness とは逆を行く思想であると言える。

また、移民から成り立った国である
カナダやアメリカは
元をたどれば、先住民を除けば、皆外国人だったのであり
見た目や話す英語が
アメリカで生まれ育った者とは異なったとしても
だからと言って
「よそ者」とは言わない。

アメリカ・カナダで生まれ育ったとしても
英語にアクセント(訛り)があるなんてことは
移民2世だったりすると存分にあり得る。
見た目がアジア人だからと言って
アメリカ・カナダで生まれ育って
英語しか話せない人だっている。

つまり、見た目や英語のアクセントだけでは
その人の出自・アイデンティティを判断できないということだ。
その人が現地の人だった場合、
「よそ者」扱いした場合、失礼にも当たる。

だから、「よそ者」という言い方は控えている節がある。

これには私自身が
北米社会に馴染む努力をしてきたからこそ
「外国人扱いを受けることが屈辱」だと捉え
敏感に反応してしまう、
という点もあるだろう。

だが、アジア人移民の多くは
今でも時折、相手の無知から来る
差別的な対応に遭遇することがあるのも現実だと言える。

例えば、K-Pop 界に Eric Nam という歌手がいる。
彼はアメリカで生まれ育ち
英語ネイティブスピーカーなのに
それでもその見た目とK-Pop歌手という肩書から
「英語、すごく上手だね。どこで勉強したの?」
なんて言われたりする。

別の例を出してみよう。
インスタかどこかでこんな動画上がっていた。

アジア系アメリカ人女性がジョギングかの途中で
アメリカ人白人男性とすれ違い
ちょっと会話を交わすことに。

その会話の中で、男性の方が
「ところで、あなたは出身、どこ?」
と女性に尋ねる。

女性が
「私はアメリカ出身よ」
と何度説明しても
もう一人のアメリカ人が
「いや、そうじゃなくて、アメリカに来る前はどこから来たの?」
と何度も質問する。

そして、女性は質問の意図を理解し
「私の祖先は中国から来たのよ。ひいおじいちゃんだけどね」
と自分のバックグラウンド(祖先の民族アイデンティティ)を答えると
男性は満足したように
「あー、なるほど、つまり、あなたは中国人なんだね!」
と返す。

このやりとりがいかに滑稽であるか。
でも、男性の方は「してやったり」みたいな態度で
そこに差別的な意識が潜んでいるなんて
微塵も意識下にない。

実は、この動画には続きがあり、
女性が今度は男性に
「で、あなたはどこ出身なの?」
と尋ねると、男性は
「ああ、サンフランシスコだよ」
とさぞ当然かのように答える。

すると、女性が
「いや、その前、あなたの祖先はどこから来たの?」
と尋ねると、男性が
「あー、祖先はイギリスとスコットランドだね」
と答える。
そして、女性が
「あー、なるほど。あなたはイギリス人だったんだね!」
と陽気に返して、その場を立ち去り、
男性は困惑したような表情で取り残される、というエンディング。

「あなたの質問はこれくらいお門違いですよ」という
無知な相手をやり込める、という風刺的な内容。
(↑動画の詳細についての記憶は不確かですが、
 ストーリーは概ねこの通りだとご理解ください。)

アジア人なら経験があるかもしれない、この対応。
これが「差別」だとは微塵も思わない人に
少しでも意識をしてもらうための動画だと思う。

「異質」=「私たちとは違う」=「よそ者」

ケベック州の中で
ケベック人がドヤ顔して
「すごく多文化都市で人もフレンドリーな街だよ!」
と豪語するモントリオールだが
アジア人の私は
トロントほど受け入れられているとは感じない。

見た目がアジア人だというだけで
フランス語で対応されない。
なんなら、フランス語で一生懸命話しても
途中で、英語に切り替わったりする。

モントリオール人は言う。
「相手の為を思って、話しやすい言語で話してあげてるんだよ」

この発言には
「あなたはよそから来た人だからね」
という意識が透けて見える。

正直、
トロントからモントリオールに引っ越してきたばかりの頃、
こういう待遇を何度か受けたことは
非常に屈辱だった。

20年近く住んだマイホームと言えるカナダという国で
また外国人扱いされるなんて、と。
(トロントではこうした待遇は受けなかった)

ケベックという州は本当に特殊な場所だと痛感もした。
こちらでの生活が長くなるほど
フランス語で会話ができなければ
相手から冷遇されてしまう。

そして、ふと日本を思い出す。
「そうだ、私が大嫌いで出てきた日本も
こういうところがあるな」と。

道行く見た目が明らかにアジア人でない人たち。
その人たちに日本語で道をきかれているのに
「アイ ドント スピーク イングリッシュ」
とパニック気味に返答する人たち。

見た目がアジア人だけれども
日本語を話さない人たちに対して
急に英語で対応しようとする人たち。
その人たちが英語が話せるとは限らないことも露知らず。

それは、ある意味、
「異文化、多文化への免疫がまだできていない」から
仕方がないこととも言える。

無知から来る、無知ゆえの行動。
そして、無知ながらも
一生懸命、その人なりに考えたベストでの対応。

そういうことも分かっている。
ので、無碍に批判もできない。

だが、「よそ者」と扱われた側は
どんな気持ちになるだろう?

日本語を一生懸命勉強して
日本語を使おうと思って日本に来たのに
ずっと英語で返事されたら
どんな気持ちになるだろう?

きっとこれは
「外国人」意識のままでは辿り着けない視点かもしれない。

現地に馴染もうとしているのに
「あなたはよそ者でしょ」
という対応は、国単位だけで起こることではない。

都市部と地方など
引っ越しをした時。

新しく友達を作ろうと
仲間に入れてもらおうと努力している時。

そんな時、
「あなたと私は違うから」
そういう理由で受け入れてもらえなかったら
どんな気持ちになるだろう?

『そんなこと、考えもしなかった!』
という人もいるだろう。

英語ではこういう表現もする。
"Well, now you know!" 
(一つ学んだね!)

最後に

「よそ者」という意識は
「仲間になりたい」と思う人を
深く傷つける凶器になり得る。

この凶器は
無知だから振り回してしまいがちなんだろう。

その凶器による傷の痛みを知っている人は
その痛みを知っているからこそ
同じような境遇にある人には
「相手の立場に立って」
優しく接することができる。

少なくとも私はそういうことを考えるようにしている。
「相手の立場に立つ」
ということは、案外、簡単ではなかったりする。
「相手の立場」に独善的な考えで立っていることもあるからだ。

知識だけでは埋まらないものがある。
特に人の気持ちというのは、
結局、同じような経験をした人でないと分からないこともあるのだろう。

「世界を広げる」
「視野を広げる」
とは何も知識を蓄えることだけではない。

どういった意識を持つか。
同じ人間として
どれだけ心で通じ合えるか。

そういうことも多分に関係してくることを
肝に銘じておきたいと思う。

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