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「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」の文化的な背景について(The Cultural Background of Ticket to Ride Legacy)

ちょっと長めのまえがき

本記事は、Jason Perez氏が2023年10月4日に投稿した「The Cultural Background of Ticket to Ride Legacy」という3つの書込みをまとめて翻訳したものである。

Jason Perez氏は、プエルト・リコ出身のアメリカ在住のボードゲーマー。ボードゲームのYouTubeチャンネルであるShelf Storiesを運営しているとともに、最近では、ボードゲームのYouTubeチャンネルの最大手であるThe Dice Towerにもレビューを投稿している。

彼を一躍有名にしたのは文化コンサルタントとしての仕事である。彼は、上記のShelf Storiesにおいて、ボードゲームにおけるテーマ設定(特に植民地主義)を分析して解説している動画を数多く挙げているところ、彼は、文化的な内容に多数の問題があるとされた「プエルトリコ20」のリメイク作である「Puerto Rico 1897」に携わったことで脚光を浴びた(詳細はこの記事を参照されたい。)。残念なことに、日本においては「プエルトリコ20」が大々的に発売がアナウンスされたにもかかわらず、「Puerto Rico 1897」の流通については全く音沙汰がない。

なお、興味があれば、Jason氏、Cole Wehrle氏(「パックス・パミール:第2版」、「ルート ~はるけき森のどうぶつ戦記~」のデザイナー)及びMary Flanagan博士との対談である以下の動画を観ると面白いと思われる。

本記事は、もうすぐ発売される「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」のテーマ設定について、Perez氏が分析したものである(その経緯は冒頭に掲げられている。)。

同作品は、BGGにおいてそのテーマ設定に批判が多くあった(特に、ルールブックの14ページ)。その批判を最もよくまとめてあげて、比較的洗練された文章で表しているのが本記事であると思われる。その当否は措いたとしても、海外における言説を内在的に理解するのは意味があることだろう。

また、本記事と関連して、前回前々回の記事を読むと、この後の翻訳記事の理解に資すると思われる。

ただ、本記事の内容は、私の専門とはかけ離れているので、訳者としてはもっと適切な人がいるだろうと思われる。訳文について何か気づきの点があったら教えていただきたい。

元投稿は、各翻訳の冒頭にリンク先を貼り付けている。ヘッダー画像はBGGから引用している(クレジット: W. Eric Martin)。

その1:西武開拓時代のお約束ごと

こんにちは! 多くの人は、私が「Puerto Rico 1897」の文化コンサルタントであると知っていると思う。そんで、みんなのお気に入りのゲームの1つの楽しさを台無しにするために帰ってきたよ! 冗談だよ……半分ね😉

以下の文章は、ゲームメーカーから依頼された「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」の文化的背景に関するエッセイだ。彼らは全文を(※ルールブックに)掲載しないことを選択したけれど、BGG上に投稿していいという許可をくれた。この文章にはレガシーのネタバレは一切含まれてない。正直にいうと、この文章はあんまりこのゲームを参照していないんだ。というよりも、文化的なお約束ごと全体にわたる西部開拓時代のあり様と落とし穴に関する考察となっている。興味ある人に対して、12ゲームをプレイし尽くす際に頭の中に入れておくべきことを提供できたらいいなと思っている。

Ⅰ:はじめに-フィクションを見る2つの方法

「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」は、19世紀の大陸横断鉄道建設中の西部開拓時代という現実世界の時代に基づいた架空の設定となっている。ほとんどのゲーマーは後半部分、すなわち、フィクションの部分に注目するだろう。アメリカ文化では、西部開拓時代をとてもロマンがあってノスタルジーを感じるものとして捉えている。私たちが鉄道に関して抱く虚構は、大声で怒鳴り立てる輩、旅芸人、親切な車掌さん、晴れ着(their Sunday finest)で着飾った日常的な乗客というお約束ごとに浸かりきっている。さらに、このちょっとしたノスタルジーをここアメリカで楽しむにとどまらず、ヨーロッパや世界中に輸出することにも成功している。多くのゲーマーにとっては、単純にこの設定でプレイすることが心地よいものとなっている。結局のところ、ただのゲームじゃないかってだけなのか?

けれども、そうじゃない人たちにとっては、現実世界の特定の時代はあまりロマンがあるものではない。何百人もの人たちを含む何千ものネイティブ・アメリカンの部族は、鉄道を敷設するために自分たちの土地を放棄させられて最終的には殺されることとなった。何十万人もの鉄道労働者、多くはアメリカという約束の地に新しく入植した者は、過剰労働と不当な低賃金の下で搾取されて負傷していった。そして、業務中に死亡することが頻繁にあった。

暴力、抑圧、それに搾取によって鉄道のような楽しめるものを手に入れることができたなんてことを考えたくはない。ゲームの卓上やゲームフォーラムにおいてこういった話の多くを取り上げることは、何とも残念なことだ。だけど、歴史を知っている者、特に祖先が影響を受けていたという者は、そういったことを見ないわけにはいかない。私たちにとってそれは単なるゲームではない。多くの面で、私が指摘する暴力、抑圧、搾取というのは残存し、今日生きている人たちに影響を与えている。

私の知る限り、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」ではいかなる暴力も描かれていない。このゲームの目標は幸せで楽しい時間を過ごすことだ。それゆえ、どこに害があるんだろうか? 文化が忘れた時に、抑圧が残存してしまうんだ。物語の抹消は、単なる偶然の副作用ではない。それは、批判的な省察を妨げて自分たちをノスタルジックで歴史を抹消する泡の中にとどめておくことによって、抑圧を正当化して維持する積極的な役割を果たす。演劇、テレビ番組、音楽、本、映画といった文化的メディアは、歴史の授業よりもはるかに大きい声を上げていることが多い。このことはゲームにも同じく当てはまる。本当に人気作である「チケット・トゥ・ライド」であれば特にそうだ。"たかがゲームだろ"とは言うが、繰り返し至るところで文化的に消し去られたり、文化的に不当な表現をされたり(misrepresentation)した経験を既にしている人たちにとってはそうではない。

Alan MoonMatt Leacock、それにRob Daviauは、意図的にこんなことをしたわけじゃない! 彼らのゲームをどうかプレイしてほしい! 彼らは本当に素晴らしい人たちだ。私は、彼らに計り知れない尊敬の念を抱いているし、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」における私の考えを共有するために招いてくれたことには感謝している。このお約束ごとそれ自体に問題が含まれていて、慎重に取り扱うべきものだ。

これは、何よりもボードゲームのお約束ごとに関する考察だ。私は、どのようにしてお約束ごとが有害な文化の盗用(harmful cultural appropriations, ※文化の私物化)、ステレオタイプ、ゲーマーの心地よさのための抹消を永続させているか示そうと思う。列車の喩えに引きつけるなら、お約束ごとは列車そのもののようであり、多くのゲーマーを乗せて素晴らしい旅に連れてってくれるが、その裏でゲーマーたちの中には体験を損なってしまうこととなる望まない密航者も伴ってしまう。さらに、関係するアメリカの鉄道の文化的な歴史の一部を共有して、私たちがあまり耳にしない物語をもつ人たちを強調するつもりだ。

Ⅱ:私は、ほかの「チケット・トゥ・ライド」全てについて話しているのか? それとも、レガシーだけ?

オリジナルの「チケット・トゥ・ライド」のために書かれた1段落のちょっとした言い伝えの中には、フィリアス・フォッグの「八十日間世界一周」から着想を得た"5人の旧友"について読むことができる。そうしているうちに、このゲームは、冒険を探し求める旅行者としてプレイヤーを位置付ける! 少なくとも、できる限り多くのアメリカの都市を訪れる冒険にはなる。

これは、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」とは全く異なるシナリオだ。「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」では、プレイヤーは、鉄道に乗車するのではなく、鉄道を建設してそこから利益を得る。視点というのが重要だ。初めのフィクションが言うところの"19世紀の開拓者たち"として見せかけている、利益を求めるオーナーという視点を導入することにより、単に乗客としてプレイするだけでは存在しない、余計な文化的・精神的な負担をもたらす。

Ⅲ:ボードゲームのお約束ごと

1つのコンセプトは、最初から明確に提示される必要がある。要は、ボードゲームというメディアの限界のせいで、ボードゲームデザイナーは自分のゲームのために文化的なお約束ごとに頼る必要がある。ボードゲームデザイナーであるBruno Faiduttiによれば、彼のエッセイである「ポストコロニアルのカタン」(※和訳はここ)の中で、"ボードゲームデザイナーの選択は、決まりきった表現(cliché)と深さ又は正確性との間にあるのではない。それは良い決まりきった表現と悪い決まりきった表現との間にあるか、古い決まりきった表現と新しい決まりきった表現との間にある"とのことだ。選別、削減、単純化、強調、軽視に対して異を唱えはしない。これらは全て優れた物語の語り口(storytelling)のために技術的に必要なことだ。けれども、どの決まりきった表現が使われるか、どこでそれらを学んだか、どのように他の文脈で作用するか、どのように様々なプレイヤーに影響を与えるかについては重要だ。

このことは、大衆向け市場のボードゲームにおいては特に当てはまる。こういったボードゲームは2つの総合的な目標を成し遂げるために用いられることが多い。①人々をゲームに惹きつけて楽しいテーブル体験を引き起こす、②プレイヤーがゲームメカニズムを理解して関与することに資する視覚的な手がかりを与えてくれる。お約束ごとはショートカットとして機能し、文化的な親しみやすさを利用して、より手っ取り早くて簡単にゲームにとっつきやすくすることができる。剣とモンスター? 冒険と戦闘が待ち構えているさ。ゾンビ? サバイバルゲームだね。バイキング? 物を略奪することを期待するよな。ゲームとプレイヤーを結びつけることに役立って、そのゲームを購入させてプレイさせるものなら何であろうと、それが肝心なことだ。楽しさを理解して際立たせやすくするために、お約束ごとがあればあるほど、もっと良くなる!

ゲームのテーマとして、懐かしい西部開拓時代というのは、それ自体で非常に大きな役割を果たし(does so much heavy lifting on its own)、デザイナーや出版社がかなり頻繁に西部開拓時代に立ち戻ってくる理由については少しも不思議なところはない。1893年、歴史家であるフレデリック・ジャクソン・ターナーは、自身のフロンティア学説(Frontier Thesis)を統合した。その中で、彼は、民主主義、独創性、創作性といったアメリカ文化の最高な点がフロンティアの文脈において形成されたと主張した。"アメリカの民主主義は、いかなる理論家の夢からも生まれたものではない"と、彼は記述する。"アメリカの民主主義はアメリカの森から生まれて、新たなフロンティアに触れるたびに新たな力を得ていった"とも。手付かずの自然を飼いならし、新しいアイデンティティを形成し、自分自身を除いて従う決まりがないところで生活する、これら全ては、かなり意図的にノスタルジーの中に埋め込まれている。

さらに、"何だってできる"という雰囲気といったこの特定のノスタルジーは、アメリカの西部開拓時代でのみ本当に現れ得るものだ。「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」においては、プレイヤーは(※アメリカの)東海岸地域から出発し、その後、アメリカの西部と南部地域の(少なくとも、プレイヤーにとって)"素晴らしき未知の領域"へと自分の鉄道帝国を発展させる。文化的なお約束ごとが用意されており、プレイヤーは最初のレガシーステッカーを貼り付ける前であっても、これから広がっていはずの(empty)ボードがどう変化していく可能性があるのかというようなことを既に想像することができる。わくわくするね! これは、例えば、うまい具合にマップ化されたドイツの田舎を舞台にした似たようなゲームや、宇宙空間を舞台にしたゲームとは、非常に異なる着地点となると思う(あっちでは、無法者、窮地にある乙女、ランダムに動く動物ショーのあるサーカスに出会う可能性は低くなるね。)。

百聞は一見に如かず。ゲームの箱に描かれた1台の古い煙を吐いている列車、あるいは、前途有望な輝く列車の識別符号(ticker, ※この訳は自信がない)は、ルールブックのインクを非常に大量に節約してくれる。

Ⅳ:2人のクソな密航者

大衆向けゲームのテーマが果たしてきた役割は道具的で(instrumental, ※補助的で)、結局のところ二次的なものであったせいで、私たちはあまりテーマに注意を払ってこなかった。けれども、現代ボードゲームのコミュニティが拡大するにつれて、新しいゲーマーが、お馴染みのテーマにさまざまな人生経験や視点を持ち込むこととなった。新しい声は率直に物申す。"おい、俺たちは、他の人たちみたいにこの乗り物を体験していない。ここには(少なくとも)2人のクソな密航者がいる。たとえ、どれほど俺たちが乗り物に集中しようとしたり、他の人たちがそんなの無視するように言ってきたりしたとしても、密航者は俺たちに話しかけるのを止めようとしない。こういことを何とかすることはできないものかい"といったようにね。

この"クソ野郎"は、西部開拓時代の現実的な描写とフィクション的な描写の多くにそいつら自身を埋め込む(attach)文化的な抹消という形式をとる。つまり、アメリカ先住民族の大量虐殺を抹消し、労働者の搾取と闘争を抹消する。

いつどのようにして密航者はボードに飛び乗ってきたのだろうか。まさにゲームメーカーが西部開拓時代の言い伝えを舞台にしようと決断した瞬間だ。ちっ、それは、ゲームボードとして機能するアメリカのマップそのものにすら織り込まれている。特定のゲーマーの集団が手に取るようになって共感を生み出すのと全く同じロマンを感じるお約束ごとが、同時に、西部開拓時代の歴史を知り、直接影響を受けた他の人たちに不快感と反感を生み出している。これが、お約束ごとの仕組みだ。お約束ごとの受け止め方は、ゲームメーカーの意図がどうであろうと、あまねく同じということは決してあり得ない。こういうわけで、私たちは慎重にお約束ごとを取り扱うべきということになる。

その2:先住民族の抹消

Ⅰ:鉄道の黎明期における文字どおりの意味での先住民の抹殺

西部開拓時代のお約束ごとが行う最初の抹消は、ヨーロッパ人が接触するまでに、現在アメリカと呼ばれる土地に何千年間も居住していた先住民族に関するものである。ジョン・スティーブンスが自分の所有地で最初に蒸気機関車を円形に走行させた1825年までに、先住民族の人たちは、既に何世紀にもわたって土地を追い立てられ、白人による虐殺を経験していた。何千人ものクリーク族チョクトー族チェロキー族その他の文化をもつ人々がアメリカの南東部からミシシッピ川を超えてオクラホマ州に強制移動させられた悪名高い涙の道(Trails of Tears)が、1831年に始まった。涙の道は、鉄道で移動させることが可能となるたった十数年前のことだった(はっきりと言うけれど、そうであるからといって、この強制移動の悲惨さや暴力性が低まるわけではない。)。

1850年代後半を通じて、鉄道会社は、先住民族との合意を破棄するのに不可欠な役割を果たすとともに、先住民族とその生活様式に対する暴行を続けた。バッファローの群れは多くの平原に住む先住民族(Plains tribes)の文化と生活の基礎をなしていたが、流入してきたハンターや入植者により大規模に殺されてしまった。彼らは、時には鉄道会社から資金的な支援を受けていた。

混乱の別の例は、1851年のララミー砦(又はホースクリーク)条約に始まる。シャイアン族アラパホ族クロウ族アシニボイン族、様々なスー族などの代表が署名した条約は、これらの部族の主権を有する境界を確立しようとするもので、現在のネブラスカ州ワイオミング州ノースダコタ州サウスダコタ州の一部をカバーするものだった。けれども、この条約は、白人の入植者によって、ほぼ即座に、とりわけ1859年のパイクスピークのゴールドラッシュ以降に違反されてしまった。暴力はエスカレートした。それには、第三コロラド騎兵師団による先住民族の女性と子供が虐殺されたことが特筆すべきことも含まれる。

Ⅱ:陸軍と鉄道という強大な組織

グレンビル・ドッジ少将の経歴は、ほとんどの西部開拓時代のフィクションがほぼ常に完全に無視する、鉄道会社と軍部との親密なつながりを示すものである。先住民族との紛争における活動的な将校でありながら、彼は、同時にユニオン・パシフィック鉄道のための測量業務を行った。1866年までに、彼は軍から退役して、最終的に最初の大陸間横断鉄道となる会社の技師長(※チーフ・エンジニア)を務めた。陸軍と鉄道という強大な組織が侵攻してくるのに対して、先住民族に勝ち目はほとんどなかった。ロクサーヌ・ダンバー=オルティスが「先住民とアメリカ合衆国の近現代史」において指摘するように、アメリカ陸軍は、インディアン戦争という文脈において、陸軍の形を最も確立することとなった時期(its most formative years, ※形成期)を経験した。今日では、AH-64 アパッチUH-60 ブラックホークOH-58D カイオワなどのように攻撃ヘリ等の兵器にアメリカ先住民族の名前を付けるという軍の伝統に反映されている、こういったつながりを知ることができる。

アメリカ陸軍もアメリカ先住民族も「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」には登場しない。鉄道オーナーとなって、プレイヤーは発砲することなく個人の鉄道帝国を築くことができるだろう。もし、お好みであれば、これを技術的な(artistic)選択と呼ぶのは自由だ。私は、これをノスタルジーが実行されたことによる抹消と呼ぶ。植民地化された状況のように、実際の歴史に忠実に従った鉄道ゲームは、ある種のウォーゲームになるだろう。

Ⅲ:"消えゆく先住民"

ゲームメーカーは、この醜悪な歴史を回避して自分自身たちのフィクションに携わっているだけだと言い張ることができるだろうか。文化的な密航者というアイディアに戻ろう。フィクションは現実の生活から引き出されるものであるので、そうでなければ技術的な選択として見過ごされているかもしれないことそれ自体が有害な文化的なお約束ごとに変貌する。この場合において、私たちは"消えゆく先住民"を取り上げている。

歴史的には、先住民族の人たちの強制移動を正当化するために用いられた考えの1つが、先住民族はいずれ消え失せる人種であるというものだった。消えゆく先住民族のお約束ごとの非常に有名な例の1つは、1826年の小説であるジェイムズ・フェニモア・クーパーの「モヒカン族の最後」だった。キャラクターの1人であるタメナンドという名の先住民族の賢者(sage)は、小説の最後のほうで、"青白い顔の白人野郎(the pale-face)こそが地球の主である。赤い男の時代というのはまだ戻ってはこない……"と述べている。降伏について語ってるじゃないか! この小説では、先住民の文化が完全に消え去り、"青白い顔の白人野郎"の文化に組み込まれて同化する未来を想像している。これは、トールキンの「指輪物語」の冒険譚(saga)におけるエルフとよく似ている。すなわち、隆盛を極めた時代があったが、必然的に死に絶えて消えゆく人種ということだ。このゲームのような、今日の大衆向けのフィクションに至るまで、消滅と同化は完遂されている。

現実の世界では、同化は非常な多くのアメリカ先住民族のコミュニティによる抵抗に遭った。さらに、最終的な抹消と同化は、本当の意味で一度も達成されたことはない。1890年には総人口が25万人を下回る最悪の状態から、今日では500万人の人たちが、何らかの形で直接的なアメリカ先住民族の子孫であると主張している。彼らのコミュニティは所得の低さ、平均寿命の低さ、その他の社会の病弊に苦しんできたので、平等を求める彼らの闘いは今日も続いている。彼らの多くは、アメリカ政府に対して、過去の過ちを認識して、歴史的な条約を遵守し違法に奪われた土地の一部を返還することを含めた救済策を与えるように求めている。最も特筆すべきなのは、前述のララミー砦条約で保障されていたブラックヒルズであろうが、白人によりラシュモア山を建設するために無断で使用された。

クレジット: Jason Perez

文化プロデューサーは、彼ら自身のやり方で、西部開拓時代やいかなる場所におけるアメリカ先住民族が舞台から平和的に姿を消してしまっていた古いお約束ごとが助長するのを控えることによって役に立つことができる。真実からより遠のくことなんて一切ない。

その3:鉄道労働者の搾取

Ⅰ:"ボスファンタジー"というボードゲームのお約束ごと

ユーロスタイルのゲームは、私が"ボスファンタジー"と呼ぶようになったお約束ごとに溺れていることが多い。どの企業の社長に、自分の労働者に対して抱く最高の夢って何だろうかと聞いてみるといい。特に株主に対して利益を返還する必要がある社長に聞くのがいいね。その答えは、完璧にこなして、言いなりとなるロボットのような従業員で、最小限の賃金で最大限の生産性を生み出す奴といった感じになる。

多くの経済ボードゲームにおいては、この視点は究極の表現に至ることが多い。ゲーム内のワーカーは、とにかく存在しているとしても、賃金や維持費を一切必要とせず、プレイヤーが欲しいものと思った時に指示されたとおりのものを生み出してくれる。これって、ボス(プレイヤー)にとって何と完璧な存在なんだろうか。

技術的な選別というアイディアに加えて、多くのデザイナーとゲーマーは、合理化されたゲームデザインに必要不可欠なものとしてボスファンタジーのお約束ごとを擁護する。ワーカーに支払をすること、変動する生産価値を逐一確認すること(tracking)は、ほとんどのゲームにとってあまりに多くの手間と余計なことを生み出すと考えられていることが多い。ゲームデザインにとって完全に言いなりな労働者が有用であると同じく、ここでも、再度、密航者の問題に遭遇することになる。特に、現実の歴史から"ボスファンタジー"が引き出されているゲームにおいては、無害なデザインの選択として理解され得ることが、代わりに有害で抑圧的である文化的なお約束ごとを再現することになる。それは、"常に幸せな労働者"というお約束ごとである。これは、雇用主にも顧客にも喜ばれることが期待される人のことであり、勤勉に労働し、自分の賃金と労働条件に満足している人である。実際に、こういう奴は、このゲームの中にいるよな!

クレジット: Jason Perez

プレイヤーは、労働者の賃金や労働条件について考えが及んでいるとしても、現実世界の消費者と同じように、そういうことを気にかけないように促される。しかし、労働者の観点からすると、"常に幸せな労働者"というお約束ごとは、労働者に対して、幸福でいなさい、長時間労働、減給、時には労働に必然的に伴う危険な労働条件を笑顔で耐えなさい、さもなければクビだという話を隠すうわべの虚説(façade)を取り繕うようにするというかなりのプレッシャーを生み出すことになる。労働者の実際の闘いは、彼らが働いていた企業の物語に組み込まれていることはほとんどないようだ。

Ⅱ:労働者というのはどんな人であり、彼らは実際にどんなことをしたのか

1800年代後半を通じて、アメリカの労働者階級は世界的な移民によって変貌を遂げた。多くの移民はより安全な仕事を選んだけれども、何千人ものアイルランド系労働者の一世、二世は、最終的には、平原で作業するユニオン・パシフィック鉄道のために線路を敷設することとなった。アメリカの西海岸では、約2万人の移民中国人の労働者が、セントラル・パシフィック鉄道のための線路を敷設するために過酷な労働と危険性に耐えていた。死者を出しかねない安全条件と人種差別的な賃金格差を伴うことが多かった。大陸横断鉄道を完成させるだけでも推計で1000人が亡くなった。

ひとたび、アメリカで客車と貨車を併結した混合列車による旅(passenger and freight rail travel)が標準的になると、線路を敷設する労働者は、列車自体に乗車して働く形に変化したことが多い。給料は列車内での作業に左右されるが、新しい巨大な列車上でのほぼ全員に共通する関心ごとといえば安全性だった。1880年までに35人に1人の労働者が重傷を負った一方で、117人に1人の労働者が亡くなったのだった。

賃金や労働条件の改善を求める労働者のストライキは、その時代の全期間を通じて発生していたけれども、1873年恐慌の悲惨な経済状況がより強烈な労働闘争の波を引き起こした。大騒擾(Great Upheaval)とも呼ばれる1877年の鉄道大ストライキは、労働者が、雇用主であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道(そのとおり、「モノポリー」で馴染みがあるかもしれないB&O Railroadとまさしく同じものだ。)からの1年間の3回目(※Wikipediaでは2回目となっている。)の賃下げの受入れを拒絶した時にウエストバージニア州で始まった。このストライキは69日間にわたって数多くの都市に広がり、ピーク時には10万人の労働者が参加した。彼らは、国の鉄道システムを機能停止させ、1000両以上の車両を破壊し、何百万ドルもの物的損害を発生させた。

鉄道王たちは、全般的にみて労働者との再交渉には応じなかった(彼らのほとんどには、容易くその損失を填補する余裕があった。)。その代わり、彼らは地元の民兵をけしかけたり、ピンカートン探偵社のスパイに金を渡したりしたし、時には、暴力でストライキを鎮圧するよう地方政府に働きかけた。ジェイ・グールドという名の鉄道王は仲間うちで悪名高く、"ウォール街メフィストフェレス"というニックネームを得て、"俺は労働者階級の半分を雇って、もう半分の労働者階級の奴らをぶっ殺すことができる"と豪語していた。1877年の鉄道大ストライキに戻ると、このストライキがようやく終わったのは、鉄道王と友達であるヘイズ大統領がアメリカ軍を配備して最終的に労働者に平和がもたらされた時だった。アメリカ史上、このような形で軍隊が用いられたのは最後となる。大騒擾の間、全体で約100人の労働者が亡くなったが、これは、当時起こった非常に闘志あふれる唯一の労働行動では決してない。

Ⅲ:今日の鉄道労働者

私が最初に認めることというのは、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」は、鉄道労働者に対するこういった暴力の重さに責任をもつことなんてできないし、すべきでもない。けれども、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」のような多くの人気のある鉄道ゲームが、実際に鉄道による旅を実現させた労働者以上に鉄道オーナーの視点にどれほど集中して美化しているかは疑問がある。

幸いなことに、この投稿を公開した2023年10月時点では、現在の鉄道労働者はかなり増加した賃金となり、概ね安全性が向上した、主として貨物を輸送する列車で働いている。しかし、古くからの問題の中には残存しているものもある。特に全体的な生活の質に関してはそうだ。かつては、労働者は、1週間に六、七日働き、家にいるよりもかなり多くの時間を仕事に費やしていた。今日の状況は異なっているとはいえない。唯一の違いは、今日では、アルゴリズムが労働者の勤務時間を決定し、彼らの家族の事情に関係なく即座に呼び寄せて、一度の労働で数週間列車内に留め置き続けるということだ。その上、ほとんどの企業がCovid-19のパンデミックの最中に人員を大幅に削減し、鉄道を運行させるために少なくなった労働者により多くの労働を要求した。人手不足と極度の労働のせいで、列車事故や負傷が現在増加している。鉄道会社は、労働者よりも、社内の経営陣や株主に対して一層の忠誠心を示し続けている。2023年の初頭、オハイオ州の小さな町であるイースト・パレスティーンにおいて、1000年に一度の脱線事故が発生した(※ニュースはここ)。この問題に対処することを意図した鉄道の安全性に係る法律は、この投稿を書いている時点では、上院議会の委員会に埋もれて動かないでいる。レガシーの箱から突然現れて私たちの帝国を築くのに資するような、過去現在を含めた実際の労働者に留意することを求めるのは過度なのだろうか。人生のおける多くの分野においてみられるように、労働者は、自分たちの話をしようとする試みから恩恵を受けることになる。そういった試みを頭から追い出したい衝動にとらわれるのに抗い、非常に重要で思慮深い過去と現在とのつながりを形成することになる。

おわりに:さてここからどこに向かうのか?

この投稿の冒頭で述べたとおり、私はみんなが「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」を楽しくプレイして、デザイナーたちがこのゲームで成功を収めることを心から願っている。私は、いかなるゲームも"キャンセル"したいとは望んではおらず、みんなが気づいていないかもしれない問題を伝えて、みんな自身でテーマを評価することができるようになる道具を提供することだけを望んでいる。

結局のところ、私の目標は伝えることだけでなく、説得することもあるということは認めるよ。私は、消費者に対して、同じ古臭いお約束ごとに依存しない新しいアプローチを声をあげて求めることを推奨したいんだ。それに、私は、ゲームメーカーが、次の一般的な原則に従って、自由意志に基づいて、(※テーマに関して)何を選別すべきかに関する様々な方向性を探求することを検討することも歓迎する。

  • 特に権力の力学が関わっているときには、より意図的かつ誠実に歴史的な事柄を取り扱う。そうすることでゲームがもっと複雑な方向性になったり、大衆向けの訴求力から"楽しさ“が遠かったりするのであれば、それに従って調整する意欲を示すとか、単に問題を否定しないとかといったようにする(例えば、その難易度を引き受けるか、異なる方向性のテーマを採用する。)。

  • 創造的にお約束ごとを破壊して再定義する。あるいは新しいお約束ごとを創作する。

  • 労働者、農民、兵士といった社会から"他者"と考えられている、あまり語られることがない物語をもつ人たちの視点を重視する。少なくとも含める。

  • 一等席や二等席に座っている人たちだけではなく、鉄道に関するあらゆる職種に属するゲーマーの話を聞く。

コミュニティ全体として、支配者、船長、軍事的指導者、企業経営者といった歴史的な強者にまつわるお約束ごとに依存するようになった。そのお約束ごとは、彼らの功績を賛美してその悪事を抹消する形をとった。少なくとも、この考察が続いていき、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」だけでなく、私たちのお気に入りのゲーム全体にもまつわるお約束ごとに関する会話が拡大することに資するのであれば、この投稿は成功だったと考えるよ。

以上

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