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ゲームと教育(Jeu et éducation)

本記事は、Bruno Faidutti氏が2013年7月10日に投稿した「Jeu et éducation」(英題:Games and education)の翻訳である。

タイトルそのままの記事である。この話題に関するFaiduttiの短文を翻訳したことがあるが、まとまった文章があったので、もう10年前の記事になるが翻訳することとした。

この話題の不幸なところはいくつかある。1つは、ここにいう「ゲーム」と「教育」という言葉の意味が共有されていないところで話が進んでいるところにある。訳者は、次のポスト(旧:ツイート)をしたところ、「Hegemony: Lead Your Class to Victory」は教育的なゲームとはいえないという反応が多くみられた。

私の考えていた「教育」は当然に高等教育を含んでおり、一方向の詰め込み的な教育をイメージするものではなかったし、小学校で算数ができるようになるといった単純なものでもなかった(付言すれば、「Hegemony: Lead Your Class to Victory」におけるゲームデザイン的な荒っぽさは、まさに"教育的配慮"のもとに生まれている。)。この点にズレがあることに気づけたのは幸いだったと思う。

また、「ゲーム」もどういうものを指しているのか曖昧となっている。

そうであるとすれば、X(旧:Twitter)でよくみる「ボードゲームを教育的に利用するのは間違っている」という立場と、「ボードゲームを教育的に利用しよう」という立場は、あんまり噛み合っていない上、反目するところは少ないように思える(実際には相互に無関心である。)。

ということで、議論が深まったり、相互理解が進んだりすることはあんまりないのだなぁと感じたところである。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

この文章は、昨年5月にシャモニーで開催された"ゲームか学習か"に関するシンポジウムの記録として出版される予定だ。私のスピーチの大部分は即興であって、短く簡潔なメモに基づいたものであった。したがって、この文章は数週間後に記憶に基づいて書き直したものである(a reconstruction written a few weeks later)。私が実質的に話したことや、他の人の記憶に残っていることとあちこちで異なっていたら申し訳ない。

私は歴史学の博士号を取得していて、フランスの高校で社会科学を教えている。それに、私は多作のボードゲームデザイナーでもある。しかし、今のところ、私は、常に、どうにかしてこの2つの活動を切り離すようにしている。私の生徒は、私がゲーマーでありゲームデザイナーであることをよく知っている。経済学を教えていると、私が非常によく知っているボードゲーム市場とボードゲーム出版社を例として用いることが多い。これらは、ビジネスサイクル、季節性、製造コストの問題、それにアウトソーシングの議論を説明するための例として恰好のものだ。

私は、ゲームやゲームをすることの歴史について、今のところ学術的な研究は存在していないけれど、より一層発展させることができると確信している。私の修士論文は、どのようにチェスのルールと、もっと楽しい事柄であるチェスの起源に関する理論が中世とルネサンスにおいて発展していったかを扱った。ゲームや遊びは、フランスの高校における特徴でもある哲学の講義においても興味深い話題である。ゲームそれ自体は(※教育)プログラムの一部ではない。しかし、後で出てくるけれどブレーズ・パスカルは、最も頻繁に研究される作家の一人である。数学の教員は、理論上、ゲームについて具体的に教えてくれる唯一の存在であるけれど、彼らが言うところのゲーム理論は、あらゆる種類の戦略的な意思決定について述べるものであり、具体的にゲームについて述べるものではないので、呼称がよろしくない。

ゲームは教育理論家や官僚の間で非常に人気である。いわゆる"シリアス・ゲーム(serious games)"(全てのゲームは真剣にプレイされなければならないので、矛盾語法(an oxymoron)を装った冗語法(a pleonasm)である。)は、退屈な教育学の会合において長々と議論される。たとえ、出席している教員のほとんどが自分のクラスでそれ(※真面目なゲーム)を用いる技術的な方法を持ち合わせていないにもかかわらずだ。まあ、多分、持ち合わせているんだったらまだマシだ。

学術的な話題としてのゲームは問題ではないし、奨励されるべきだ。教育的な道具としてのゲームはもっと問題がある。もし、私がもっと若い子供たちを教えていて、彼らの時間を節約するのに資するようにゲームを用いていたり、ゲームによって、より深く、よりよく身につき、より定式化された知をしっかりと履践する大学という場にいたりしたら、私は異なる視点をもつことになるかもしれない。私は教育的なゲームに3つの主要な問題があるとみている。まず、現実世界からの気晴らしでなければならないゲームをすることの非常に本質的な事柄に疑義を抱かせる。次に、特にフランスで顕著な、学校のカリキュラムや専門的事項における度を超えた形式主義への実際のトレンドを増長させる。最後に、教育の主たる目標であるはずの、あらゆることを考え、理解し、疑問をもち、議論するために教えるということを疑うには時間がかかるということだ。

1) 気晴らしとしてのゲーム

ゲームは、何よりも現実世界からの逃避である。こういう理由で、ゲームは強力な精神安定剤であるし(パスカル)、社会がますます複雑化して入り組んでいく際に段々と必要不可欠になっていくもの(エミール・デュルケーム)。ゲームは無意味で現実世界から切り離されている場合にのみ、こういった基本的な社会的機能を果たすことができる。(私が遊んでいない)私の残りの人生において、私は現実世界について自分自身に問いかける。私は、何が現実で何が現実でないか、何が無意味で何が無意味でないか、何がゲームで何が現実かとの間で明確な境界線が必要だ。そして、現実というのは仕事だけではない。この境界線は誰しもが必要だと考える。生徒たちはこの差異を強く意識しており、教育的ゲームに警戒感を抱いている。教員が学ぶために遊ぼうと言うのであれば、彼らはそんなの詐欺だろと完璧にわかっており、それに従って反応する。真の目的は働いて学ぶということがわかっており、それが正真正銘のゲームではなくて単なる手段であると知っている。そして、生徒たちは、教員や学校を詐欺師そのものであるとみなす。

教育的ゲームは教育の信用を落とす。教えることは恥ずべきことであり、ゲームに見せかけないといけないように思えてしまう。教育的ゲームはゲームの信用も落とす。曖昧で真実味を欠いた数学的システムや社会工学のツールと化してしまう。

2) 戦略的又は批判的な分析

教育における体系的なゲームの活用を支持する人たちの中核的な主張は、ゲームが戦略的で分析的な思考を効果的に教えることができるというものだ。これは、いわゆる戦略ゲームのみならず、ほとんどの現代ボードゲームにも当てはまることは間違いなく、英語で似たような表現があるかはわからないけれど、古いフランス語で"計算可能なランダム性(reckonable randomness)"のゲームと呼ばれていたカテゴリに属するものだ。ただ、これも問題がありそうだ。経済学や社会学を教えるために用いられる可能性があるゲームは、通常、抽象的でほぼ数理的なモデルを元にしている。それゆえに、非常に限定的で、非常に方向性が決まった実社会の理解に基づいている。経済学や社会学においても、数理的モデルは既に多くの弊害をもたらしている。特に、政治家が自分たちの理論モデルに現実を合わせようとする場合には。熟慮された科学的プロセスはこれと正反対なものだというのに。フランスにおける学校カリキュラムと教育メソッドの実際のトレンドは、最初に基礎的な知識を、その後に百科事典的な知識を伝えることに注力した上、戦略的な分析、その後に解析的な分析を伝えることを重視する。けれども、未解決の問題や議論が巻き起こる可能性があるようにみえることは慎重に取り除いていたり隠していたりする。

主に数学だけれど、ハード・サイエンス(hard science, ※自然科学)の分野が重要視されていっている。そして、新しい数学のカリキュラムは、より一層技巧的なものが多くなり、理論が少ない。私たち教員がフランス文学を教える方法は、文法的な形式やレトリックの型を見つけ出すという馬鹿げたゲームと化してしまい、そのテキストが真に何を意味しているかを気にかけることは全くないし、ましてや社会的・歴史的な文脈を考えることはない。私が教えることとなっている社会学と経済学における新しいプログラムは、議論につながり得る事柄を避けて、科学的とほぼ同義といえる抽象的な手法やシステムとして経済学や社会学を説明するように構成されている。教育的なゲームも同じことだ。過剰な形式化を招き、現実を閉じたシステムとして描き、正確性や社会的機能を一切吟味させることなくルールとメカニズムを適用すると教える。まあいいさ、ただのゲームにすぎなくて、複雑で苦しみにあふれている現実世界から数分間気晴らしだったならば。もし、教育的なゲームが現実世界を描写して、実世界の知識を授けることとなっているのであれば、最悪なことだ。

教育には、仕組みと厳密さというものが必要不可欠だ。たとえ、学校というよりも、一時収容施設や修道院みたいに感じる時があったとしても、番号の付いた部屋、番号の付いた生徒グループ、出席確認、1時間ごとに鳴るベルで対応できる。ゲームから直接着想を得た得点方式でなされたテスト、試験、成績でどうにかすることができる。そうでなければ、特に資金がない中で働くのは難しいとわかっているので、この全てがあればやってのける。そうなんだけど、もっと必要だとは思わない。

学校というのは、生徒たちが物事を学び、それを身につけた上、それを用いてしたいことをして、したいことを実現するはずの場所であろう。伝統的な講義の場という比較的寛容な場所であれば気楽に議論、調査、討議、個人的な思考といったあらゆることを用いてそれが可能となる。講義が信じ難いほどの詳細なプログラムや慎重に用意されたパワーポイントに従わなければならず、教師があらかじめ確定した知識を伝えるだけで、何かほかのことをすることができなくなってしまう場合には、それは困難となる。教えることが、逸脱する(get out)ことができないゲームから形成される場合には、このことはまさしくゲームの本質ではあるけれど、同様にほぼ不可能な話となる。もし、単純なメカニズムを説明することが許容されている非常に単純なボードゲームやコミュニケーションゲームについて、そのメカニズムや内在するイデオロギーに関するコメントが付されているのであれば、そういったゲームは有用になり得る。より複雑なゲーム、特に、コンピュータ化された"シリアス・ゲーム"であって、プレイヤーによる深くて長時間の熟練が必要とされていて、より"現実的"であるためにルールをひた隠しにしようとすることが多く、そういったゲームは、現実世界を理解する助けにはならない。それに、体系的であって真実性を欠いたイメージを伝えることすら多い。もし、生徒たちに既存の枠にとらわれない思考をさせたいのであれば、枠に閉じ込めるべきではないよね。

ゲームが優れた教育的ツールに滅多にならないとすれば、ゲームデザインにはその可能性がある。ゲームをデザインすることには、数学的モデルを構築することが要求されるし、それゆえ、どんな理論がそのモデルに組み込まれているかを考える必要もある。ライティングや文学を教えることとの興味深い類似性を作り出すことも可能だ。アメリカでは、クリエイティブ・ライティング(creative writing, ※小説、ドラマ、詩などを書く講座や授業)を重視している。それは、フランスの学校ではほぼ消え去ったものであり、レトリックとフランスの古典文学という無意味な文法ゲームと退屈な学問が消化不良の状態で混ざり合ったものに置き換わっている。アメリカのシステムのほうが間違いなく効率的だ。古典文学のを読んで鑑賞するのを学ぶのであったとしてもね。

3) 時間と効率性の損失

ゲームをデザインして完成させることは、特に教育的な装いを伴っているゲームについては、多くの時間が必要となる。学校のカリキュラムは、毎年長くなって大量になっている。その理由の一端は、政府が、教師や生徒たちという何よりも困るものに対して、自分で考えたり、学んでいることについてお互いに議論したりするのに十分な自由時間を与えたくないからである。ゲームを取り入れると、実態はより一層悪化する。ルールを覚える時間というのがカリキュラムを学ぶ時間を食い潰すことになるからだ。

フランスの学校システム、とりわけ高校レベルでは、滅多に自主性が育まれることはない。一旦、生徒たちがコンピュータに習熟してしまえば(大抵は既に習熟してるんだけど)、生徒たちは調査、探究、伝統的な文章を書く作業といったあらゆる方法でコンピュータを使うことになるので、コンピュータは学校において偉大なものだ。コンピュータを活用する生徒には真の自主性があるが、ゲームをプレイする生徒には自主性は持ち合わせていない。というのも、非常に正確なルールによって非常に限定された枠の中にあまりにも囲い込まれてしまっているからね。学校にはおもちゃが必要だ。コンピュータはその1つだけど、これ以上ゲームは要らないね。

結論

もっと遊び心のある学校というのが必要だ。ゲーム的な学校なんてものではなくてね。まさしく綿密に作り込まれた(structured)ゲームが提供することができ、おそらく提供することになるであろうことと正反対であるが、教育にもっと柔軟性があって、多元的で、混沌としており、即興性があるんだったら、教育はもっと良くなるし、もっと効率的になる。私たちには、戦略的な思考が得意になるのではなく、現実世界における自覚と責任感を生徒たちに身につけさせる学校というのが必要なのだ。学校に必要なのは、ルールとテストの成績を減らすことであって、増やすことではない。

私のゲームは、気晴らすためであったり、楽しさや知的な課題をもたらしたりするようにデザインされているが、何かを教えるためにはデザインされていない。もちろん、「インカの黄金」をプレイすることで、特に割り算や素数といった数学を学ぶこともあろうし、「レッド☆ノベンバーを救え!」をプレイすることで協調性やアルコールの危険性を学ぶこともあろうし、「マスカレイド」をプレイして嘘をつくことを学ぶこともあろう。でも、それは重要ではないし、ゲームの目的ではない。

Terra」は唯一の例外で、今までデザインしたゲームで唯一の意図的に教育的な(かつ、政治的な)ものだ。これには、持続可能な開発といったような正当な理由があって、断ることはほとんどできなかった。シンポジウムやカンファレンスに最も多く招かれることとなったゲームではあるけど、売れ行きはあんまりだった。それに、このゲームが最も有用なものであるとは思わないね。

以上

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