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「エスノス」、そのリメイク作の「Archeos Society」、そしてゲームデザインにおけるインタラクション(Ethnos, Archeos Society and interaction in game design)

本記事は、Bruno Faidutti氏が2023年9月5日に投稿した「Ethnos, Archeos Society et l’interaction dans les jeux」(英題:Ethnos, Archeos Society and interaction in game design)の翻訳である。

本当に短い文章だ。この記事の前ふりとして、前回翻訳した記事がある(末尾にも参考1として掲示)。また、記事中にあるEric Langの一連のツイートも翻訳して末尾に掲げた(末尾に参考2として掲示)。

この話は、「パックス・パミール」や「ルート ~はるけき森のどうぶつ戦記~」のCole Wehrleが繰り返し述べていることと根は同じ話のように思われる。興味があれば、以下の動画も参照されたい。

また、「オース」のデザイナーズノートにも参考となりそうな箇所があるように思われる。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

才能のあるデザイナーであるPaolo Moriが手がけた私のお気に入りのゲームといえば、間違いなく「アンユージュアルサスペクツ」だが、彼がデザインした作品のほとんどは、「Libertalia」や「Dogs of War」のようなゲーム、つまり、もっと意欲的なゲームといえる。私は、2017年にCMONが出版した「エスノス」を数回プレイしたことがあり、少し不完全なところがあると思いつつ十分楽しんだものだ。アートは良いが、グラフィックは淡白だった。ゲームのマップは6つの地域に分かれているが、ゲーム的にはあまり意味をなしていなかった。デベロップから出版までが少し早すぎたところがある素晴らしいゲームのように感じていた。

もう1つのPaoloの素晴らしい作品である「Libertalia」を出版する仕事を既に手がけたSpace Cowboysのチームが「エスノス」のテーマを変える作業に尽力していると聞いた時は、私は嬉しかったよ。「Archeos Society」がちょうど世に出て、豪華な見た目になった。2回プレイしたけど、2回ともあんまり上手い具合ではなかった。「エスノス」のルールをあんまり覚えてなかったので、私が所有する古い「エスノス」の箱を開けて、変更点を確認するためにルールをざっと読んだよ。すぐに問題が判明した。「Archeos Society」は、(※「エスノス」にあった)少し攻撃的なものや、他のプレイヤーを攻撃する可能性がある要素をごっそり削除していたんだ。その理由は、戦争や暴力は、①悪いもので、②売れないからである。こういった削除は、最近、ゲーム出版社の中ではごく当たり前のこととなっている。

戦争や暴力というのは、現実世界においては間違いなく悪いものだ。けれど、小説や映画の中では問題とされていない。ゲームにおいても問題とされるべきではない。特に、戦争や暴力は、プレイヤー間でインタラクションを生み出す効果的な方法となるからだ。「エスノス」にける戦闘はあまり残忍ではなかった。細かい話をすれば(technically)、ウォーゲームというよりかはエリアマジョリティのゲームであった。それに、プレイヤーの一部が国境を越えて隣国に侵攻する可能性の部分をもっと改善できたはずだったと思う。それはさておき、「Archeos Society」では、それと真逆のことがなされた。6つの地域の支配を巡る対立関係は、様々な得点トラック上でプレイヤーの駒を動かすだけに置き換わった。ある地点を最初に通過したプレイヤーにボーナスは与えられず、対戦相手の足をすくう可能性もないため、これらは競争トラックですらない。このゲームの楽しくてインタラクションのある部分は、トラック上のそれぞれ異なった複雑な得点システムに置き換えられてしまった。そうして、各プレイヤーは自分の得点計算をすることとなる。対戦相手をほとんど無視してね。

結果として、ゲームのルールの10分の9は同じであったとしても、「エスノス」と「Archeos Society」とでは全く異なるように感じる。「エスノス」は、相手が存在し、相手と対戦する真のゲームだった。「Archeos Society」は、数理最適化問題のように感じられてしまう。「エスノス」は、単純で、楽しくて、意地汚い、あらゆるカジュアル層に向けられたゲームだった。「Archeos Society」は、真面目で、感情的ではなく、あれこれと工夫していくやりがいのあるものだが、筋金入りのゲームにとってはなお単純すぎると思う。

近頃、ほとんどの出版社が、ピンク的なかわいさか緑的なかわいさのどちらかがゲームに伴わなければ、あるいは、他者と対戦することなく自分のためにプレイできなければ、ゲームの大ヒットはあり得ないと信じ切っているように思える。最近、私ですら「黄金の島 イスラ・ドラーダ」を再版したい出版社からメールを受け取ったよ。意図的に意地悪くデザインしたこのゲームから、その魅力を最大限に引き出してくれる妨害の機会を取り除いた形でね。皮肉にも、こういった言説に執着する人たちは、いつも同じ2つの例を挙げてくる。「チケット・トゥ・ライド」と「カタン」だ。どちらも傑出したゲームであり、戦争をテーマにしたものであって、時として苛烈となる妨害要素はゲームの不可欠な特徴の1つとなっている。

私は攻撃的で、意地の悪さすらあるゲームが好きだ。婉曲的な表現を使うのであれば、インタラクションのあるゲームが好きだ。これは個人的な好みだが、かなりありふれた好みであると思うし、おそらく、筋金入りのゲーマーや出版社なんかよりもカジュアルなゲーマーの中のほうがより共通したものだろう。そして、私は、引き続き、"インタラクションのある"ゲームをデザインするつもりだよ。

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このブログを投稿してからほんの数日後に、友人であるEric Langのツイート(※現:ポスト)を読んだ。その中で、彼は、大部分の出版社がゲーム内のネガティブな効果を嫌悪している兆候があることを強調していた。

※上記ポストを含めた一連のポストは末尾に翻訳している。

彼が指摘しているのは、現代ボードゲームの不必要な複雑さの中には、ゲーム中の"悪感情となる瞬間"を最小化しようとすることに由来しているものがあるとのことだ。私は、この表現を用いなかったが、「エスノス」における地域が「Archeos Society」においては得点トラックに置き換わったのは、まさしくこういった理由である。

Ericが指摘するほかの態度としては、出版社が戦闘やマジョリティ争いに敗北したプレイヤーに対する"補償"を付け加えるようにデザイナーに要望するということである。その原因が不運のせいであれ、対戦相手の賢い動きのせいであれ、敗北があまり悪いものと感じさせないようにするんだね。

2つの理由から、通常、これが誤りとなる。最初の理由は、Ericの主な指摘でもあるが、こういった補償を取り入れることで、ルールが追加されることとなり、ゲームがもっと複雑となってしまうというものだ。もう1つの理由としては、こういった"悪感情"の瞬間は、たとえ良い瞬間を強調するという理由しかないとしても、ゲームの楽しさの一部であるというものである。真に悪い瞬間が存在しないゲームというのは、真に良い瞬間も存在しないゲームでもある。そういうゲームは単調に感じられてしまう。

Ericは、単純なルールで悪い瞬間のあるゲームの一例として、Richard Garfieldの「キング・オブ・トーキョー」を挙げる。私の3つのベストセラーゲームである「インカの黄金」、「マスカレイド」、「あやつり人形」も、無慈悲であって、時には不公平ですらある。こういったことは、プレイヤーにとっては問題があるようには思えないし、これらのゲームが成功した理由の1つとすら思っている。

「あやつり人形」の最新版では、暗殺者に置き換わるようにデザインされた2枚の1番カードとして、魔女と判事がある。この2つのキャラクターは、影響を受けるプレイヤーにとって暴力的ではない1番カードのキャラクター効果を作りたいという、出版社の要望によって生まれたものだ。私は、これらの複雑さを増したキャラクターを用いてプレイすることは絶対にないし、多くのプレイヤーがプレイするとは思わない。暗殺者のほうがかなり単純だし、楽しい。

私は、補償の全てに反対しているわけではない。それが物語に合致していて、テンポが遅くならず、ゲームを複雑化せず、緊張感が増すものであれば、補償を取り入れるべきだ。現在手がけているプロトタイプでは、虎を起こした猿がひげを保持することができて、カードを捨てて再度カードを引くためにひげを使うことができる。ゲームに楽しい物語があるし、単純なものなので、補償があっても問題はない。ダイスの目が良かろうが悪かろうが、引いたカードが良かろうが悪かろうが、補償がもはや重要でなくなっているゲームが多すぎる。それに、そういうゲームは緊張感に欠けている。

こういった"悪い瞬間"を最小化したい出版社は、ゲームにおける楽しさの本質をはき違えている。もちろん、プレイヤーは勝とうとする。それがゲームの核心だ。けれども、楽しさは、勝利するという結果には存在せず、勝とうとする緊張感に存在するのだ。私たちが最も記憶に残っているゲームとは、勝利したがもう少しで負けるところだったゲームと、敗北したが勝てたはずだったのにという体験をしたゲームだ。なんで多くの人たちが、ほとんど"悪感情"しか湧かないポーカーをプレイするんだろうか。

幸いなことに全てではないにせよ、多くの出版社は、ゲームを購入してプレイする人たちが、プレイすること自体を好むということを忘れているように思える。つまり、みんな勝とうとするが、負けても気にしないということだ。負けるのが嫌いな奴はゲームなんか遊ばないものさ。

(参考1)

本記事の元ネタである「エスノス」とそのリメイク作である「Archeos Society」のデザイナー・ダイアリーは、次のとおりである。

(参考2)

本記事中に引用されていたEric Lang氏の一連のツイートを翻訳しておいた。

ホビーゲームにおける多くの無用な複雑さというのは、"悪感情"の瞬間を最小化しようとすることに起因している。

理解できるけれども、複雑さによる損失が過小評価されることがかなり頻繁にある(というのも、そういった選択をするデベロップ担当者は、あまりにも多くの(※ゲームをたくさんプレイすることで得られる)学習をしてきているからだ。)。

私は、悪い感情になる瞬間みたいなものを形にするほうが好きだ。

例として、プッシュ・ユア・ラック(PYL)を用いるとしよう。

PYLゲームにおける"バースト"に対する最も直感的なメカニクスは、"プレイヤーは何も得られない"ということだ。

けど、非常に多くのゲームでは、精神的な苦痛を和らげるために、部分的であって、ほとんど関係のない報酬という形で、余計な粗悪品を追加している。

私は、むしろ"何もしない"手番を抑えるためにゲームの経済を形成したいと思う。

他のゲームデザイナーと作業をしていると、こういった見方が、"Ericはプレイヤーをいたぶるのが好きだ"として誤解されることが多い。

私はそうではない。本当にそんなことはない。

しかし、プレイしやすさの問題(を解決する手段)として複雑さを緩和することは、精神的な苦痛と同じくらい悪いことであると激しく非難している。

時として、こういったことは不可能となる(例えば、そのゲームの経済的な複雑さが特徴となっている場合)。わかっているさ。

けど、それでも、ゲームのテンポや経済を全面的に検討するために用いるのではなく、悪感情を伴う瞬間を回避するということを中心的な目的としてほとんどのゲームが過剰にデベロップされていると主張する。

「キング・オブ・トーキョー」は、個人的には画期的な例だと思う。このゲームは、「Yahtzee」のようなわくわくさせてくれる標準的なPYLによるドラマがある。そして、ゲームの経済は、時折発生する悪い手番に必要不可欠なものとして組み立てられている。

悪い手番は、それぞれの役割にドラマと重要性を追加してくれる。そして、手番のテンポに加えて生命/エネルギー経済が、それを中心に構築される。

私は、多くの出版社が悪い役割を最小化するためにルール量を2倍にしたいと考えているように思う("悪いデザインを除去する"という考えの下で)。個人的な意見では、これはゲームの魅力に照らして受け入れ難い考えだね。

全てのゲームが「キング・オブ・トーキョー」ではないが、もっと多くのゲームが、「キング・オブ・トーキョー」のデザイン的な経験則(heuristics)を用いてくれたならば、喜ばしいことだよね。

以上

※Bruno Faidutti氏の記事としては、他に以下のものがある。

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