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ボードゲームの拡張ってなんでクソなん?(Why Expansions Suck)

本記事は、Anthony Faber氏が2020年6月5日にBGG上に投稿した「Why Expansions Suck」の翻訳である。

タイトルそのままの内容である。タイトルの内容は煽動的だが、それに騙されないようにしていただければと思う。拡張をその目的別に分類した上で、拡張の良し悪しの話をしている。なお、やや過去の記事であり、言い回しにきついところがある。

ところで、割と多くの方に閲覧していただいた前回の記事に関して、次のポスト(旧ツイート)を見かけた。

残念だけれど、最近は記事に対する反応はめっきりと少なくなってしまったように思われる(昔はガンガン意見が出ていたので、その点で元ポストの認識は誤っている。)。リポスト(旧リツイート)やいいねはされて嬉しいが、あんまりこちらが意図したことではない。せっかく長々とした読みにくいはずの訳文を読んでいただいたのであれば、訳者としては、記事の内容に対する異論や反論を含めて色々な意見を表明してもらえるといいなと思っている。上記ポストは、意図せずしてそういった訳者の意図をくんだものとなっている。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

壁みたいに並べられた文章を見て目がどんよりしてしまうならば、ポッドキャスト「Two Wood for a Wheat」において、この議論に関する批判的な観点を抑えた内容を聞くことができる。そこでは、Vladimír SuchýDelicious Gamesから出版された2018年の高く評価されたユーロゲームの大型拡張である「アンダーウォーターシティーズ:新たな発見」のレビューも含まれている。

私の主張というのはこうだ。素晴らしいボードゲームの拡張は良いものがあまり多くない。読者のみんなには先に言及しておくべきだろう。もし、私の挑発的な前提と記事のタイトルに血が騒いで拳を握りしめていると感じるのであれば、私が個人的に抱いている憎しみのせいで、みんなが本当に心から気に入っている拡張について、これからはっきりとコケにする内容を述べるのは確かだ。

私の論拠を明確にするためには、まずは世の中にある様々な種類の拡張と、それらの拡張が何を実現しようとしているのかを深く掘り下げようと思う。こういったカテゴリ分けは部分的に重なってしまうことには留意すべきだ。つまり、拡張の多くは1つ以上の目的を有しているからね。

拡張の種類

クレジット: Peter Dörsam

1:要素が増える

これは、最も意図が明らかな類の拡張となる。それは、コアとなるゲームプレイを実質的に変えないで、ゲームに要素を追加するというものだ。

その"要素"というのは、ゲームの種類によって多くの形をとり得る。マップが増える、シナリオが増える、カードが増える、非対称のプレイヤー能力が増える、採用可能なモンスターが増えるといったように可能性は無限だ。

物語や体験をベースとしたゲームでは、そういった拡張が出ることが予想されるし、義務みたいに出されるものですらある。例えば、もし、「クロニクル・オブ・クライム」、「Detective: A Modern Crime Board Game」、「シャーロックホームズ10の怪事件」等の探偵系のゲームをプレイしているのであれば、プレイ可能な事件をやり尽くしてしまった後はプレイできなくなってしまう。そういったゲームは、引き続きプレイできるようにするための拡張が必要となってくる。

物語をベースとしたゲームに関していうと、私の批評から物語ベースのゲームを除くために、上記のような明確な線引きをしている。物語ベースのゲームの拡張というのは良くも悪くもなり得るものだが、(誰かがプレイし続けたいと願うのであれば、)必須で欠くことができないゲーム体験の一部となることは周知の事実だ。それに、こういった拡張は、この後でお話しするような類の問題に悩まされることは滅多にない。

カードゲームは、明確に拡張が出されることとなる別の対象(candidate)である。特にデックビルドゲームを指すけれど、それに限られるわけではない。誰もが期待するのは、デックビルドゲームには拡張があって新たなデック構築の方法を体験することだ。トレーディングカードゲームは、(拡張があることが)当たり前すぎて議論すらなり得ないね。それに、カードの多様性に頼っているカードゲームは、成功すれば、大量の拡張が出る傾向にある。「レース・フォー・ザ・ギャラクシー」をご覧のとおり。

セットアップに変動性のないゲームも、この多様性をもたらすための拡張から恩恵を受けている。具体的に「コンコルディア」の新しいマップをとってみよう。基本のボードには変化するところが一切なく、しばらくすると、ゲーム開始時に行われる動きが決まりきったもののように感じられるので、新しいマップというのは新鮮な気持ちを保ってくれるわけだ。

この話の全てにおけるキーワードは多様性だ。要素を増やす拡張は、新しい選択肢やプレイに用いる内容物(toys)をもたらすことを目的としている。私のお気に入りの拡張の1つは要素を増やすだけの拡張で、「マルコポーロの旅路」における「The Voyages of Marco Polo: The New Characters」である。このゲーム(※「マルコポーロの旅路」)が大多数のユーロゲームと差別化がされている最大のポイントは、マジでゲームをぶっ壊す特殊能力を有したキャラクターがいることだ。この拡張により、4人の新しいキャラクターと、これらの1つに用いられるいくつかのコンポーネントがもたらされる。それだけ。安くて、合理化されていて、やろうとしていることを完璧にこなしているね。

要素を増やす拡張の落とし穴の1つは、不用意にもコアとなるゲームプレイを薄めてしまう可能性があるということだ。例えば、拡張によってデックにカードが追加されるのであれば、(※追加したカードと)同じ枚数のカードを取り除かなければ、そのデックの精密に調整されたバランスが損なわれてしまうかもしれない。それに、要素を増やす拡張は、間違いなくバランスの問題を抱えかねない。その詳細はまた後日だね。

クレジット: Gab Pal

2:5人/6人プレイヤーを追加する

こういった拡張については、ひでぇとしか言いようがなくて、それ以外にあまり語るつもりはない。私は、ユーロゲームをプレイすることが圧倒的に多く、こういったユーロゲームは、一般的に2人から4人までのプレイヤー人数がベストだとされる。拡張が5人や6人プレイヤーを追加する場合には、99%の可能性でゲームを悪くするだけだ。"あなたが大好きなゲームと同じまま、ダウンタイムとランダム性を50%追加しました!"というキャッチフレーズを付けるべきだね。

こういった拡張は、値段が高いだけの粗悪品か声が大きいだけの少数派に媚び売ってるかであって、私が過小評価しているわけじゃない。もし、ゲームグループがユーロゲームを5人か6人でプレイしたいと思うのであれば、彼らは集団での社交的な体験を大事にしているのが一般的だ。これって、たとえるなら、2組に分けて3人でそれぞれ「カヴェルナ:洞窟の農夫たち」をプレイするよりも6人でプレイしたほうがいいということを説明できる唯一のロジックだよ。もし、みんなのゲームグループが1つの大型のゲームを通じた社交的なつながりを愛するのであれば、そうやって楽しめることを祈ってるよ(more power to you)。そういった遊び方は、素晴らしい戦略的なゲームプレイを生み出してはいないよね。

上記のカテゴリに属するのは少数のグループだと思うけど、こういった拡張を楽しむ人たちがいても全然問題じゃない。私が嫌なのは、5人/6人プレイヤーを追加する拡張が、普通の拡張の一部として販売されることだ。これは、欲しい物(※5人/6人プレイヤーを追加する要素以外の拡張要素)を手に入れるためには、5人/6人プレイヤー用の内容物を全て購入しないといけなくなる。さて、次が佳境となるよ。

クレジット: W. Eric Martin

3:基本ゲームを調整する

純粋に基本ゲームの悪いところを調整する(a patch, ※パッチを適用する)だけとか、悪いところを調整するのが主たる目的の拡張というのは非常に珍しい。だって、ちょっと残念だと思うよね。その理由は理解するよ。"金さえ払っていただけるのであれば、問題を解決いたします、というのが私たちのゲームなのです"といって出版社や消費者に対して売り込むのは困難だ。

市場で売るのが難しいというだけでなく、出版社が調整をすると、何かしらの否定的な意見(blowback)が生ずることも多い。「タペストリー ~文明の錦の御旗~」における固有能力のある文明(factions)を調整したことに関して、どれほど多くのうんちみたいなくだらない批判を受けたかをJamie Stegmaierに聞いてみるといい。ほら、こいつは私のお気に入りのゲームではなくて、間違いなくバランスの問題を抱えたまま売り出されたんだとさ。けど、出版社が自社のゲームを調整する根性があるときは、それに敬意を表するべきだ。"見ろよ! このゲームは、調整を加えるほどぶっ壊れていたんだ!"って、ただ言うのではなくてね。

Uwe Rosenbergは、出版社をどうにか説得して「オーディンの祝祭」の大型で高価な拡張を出版した。これは、私が知っている重量級ユーロゲームの拡張の中で主として調整を目的とした数少ないものの1つだ(もちろん、要素を増やすことも目的に含まれている。)。新しいボードが手に入るが、それは古いボードに微調整とバランス調整がされた多くの要素を盛り込んだにすぎない。探検ボードも増えた。単に要素を増やすのではなく、ゲーム開始時に利用できる探検ボードの数に関する些細な調整が含まれていて、今ではプレイヤー人数によって数が異なっている。プレイ開始時の職業カードの選択肢もできた。

オーディンの祝祭:拡張 ノース人」は、自分的には今まで製作された拡張の中で最高のものだ。というのも、デザイナーは、何がこのゲームをより良いものとするのかについてものすごく集中して取り組んでいて(laser focused)、手の込んだ付属品を売り込むことに興味を持っていないからだね。このゲームは、全てが適切にバランスが取れた形で売り出されるべきだったのか? そうかもね。でも、何千人ものプレイヤーが与えてくれるフィードバックという助力がないまま、「オーディンの祝祭」のサイズと広範囲のゲームのバランスを取るのは、本当に難しいことだ。「オーディンの祝祭」と「オーディンの祝祭:拡張 ノース人」を買うのに必要な数百ドルを支払いたくないよなぁとみんなが思う理由は理解できる。けれど、「オーディンの祝祭:拡張 ノース人」は、非常に良いゲームを素晴らしいゲームに昇華させてくれるんだ。これって珍しいことなんだよ。

クレジット: W. Eric Martin

4:新しいゲームプレイのメカニズムをもたらす

この項目には多くの問題が存在している。実際上の問題として、ほとんどの拡張は、要素を増やすのと新しいメカニズムの組合せであるのが実態で、大抵の場合にはそのどちらかに重きを置いている。大きくコアとなるゲームプレイを変えるゲームは、めっちゃ残念な実績になりがちだね。

「マルコポーロの旅路」の拡張である「The Voyages of Marco Polo: The New Characters」は素晴らしくて引き締まったものだけど、同じゲームの拡張である「The Voyages of Marco Polo: Agents of Venice」には大きく失望した(bloated disappointment)。この拡張では5人プレイヤーが追加されたが、この作品とってはマジで悪いアイディアとなっている。この拡張では大量の新しいアクションスポットが追加されたけど、これによって引き締まって緊張感のあるゲームが、緩慢で退屈なゲームと化した。おそらくだが、こういったきつさや、要素を達成したりリソースを獲得したりすることの困難さに不満が述べられたんだろう。この拡張は大量のアクションスポットを追加することで、プレイヤーがやりたかったこと全てを達成することが簡単になっているし、何かをめぐる争いに関する緊張感はほとんどなくなったからね。基本ゲームでは、自分の家を全て出し切って得点を得ることは本当に難しい。「The Voyages of Marco Polo: Agents of Venice」では、新しいアクションスポットの多くでは家を投下することが可能となるので、お子ちゃまのお遊びになったね。

キャラクターと契約といった要素を増やすところは、多少面白いところがあるが、全体としてみれば、拡張で自分のゲームを台無しにする方法が記載された教科書的な事例という感じだ。

素晴らしいゲームを生み出す時というのは、繊細なバランスが生み出されていく。新しいメカニズムというのは、それを容易にぶち壊す可能性がある。新しいメカニズムは、もっと多くの商品を売るという目的のほかに、強力な存在理由を必要とする。その点では、映画のようなものだね。続編の製作に当たり銭稼ぎを超えた説得力のある理由がないとすれば、その銭稼ぎという目的が表れてしまう。

別の言い方をすれば、次のようになる。素晴らしいゲームを製作するのは本当に難しい。全てのことがぴったりと適切でないといけない。あるメカニズムが基本ゲームにおいて基準を満たしていないのであれば、どうして今になって新しいメカニズムを追加することによって、ゲームをより良くなるなんて思うんだろうかね。

新しいメカニズムのある拡張が従前にあったものと同じくらい面白いという期待はある。「Lords of Waterdeep: Scoundrels of Skullport」の汚職のメカニズムは「Lords of Waterdeep」に新しい工夫を追加した。当初、このゲームは軽かったので、新しいメカニズムを取り入れたとしても、過剰にごちゃついたという感じを受けなかった。それで、だからって、このゲームが拡張のおかげでより良くなったとまでは思ってない。違う感じになったし、複雑化したし、それでもまあ楽しい。けど、個人的に基本ゲームが時代遅れになったとは思わない。だから、ほとんどの拡張は基本ゲームをより良くするものではない。

クレジット: Mark Kaufmann

5:独立ゲームとシステムゲーム

知られたシステムにおける独立ゲームというのは厳密にいうと拡張ではないけれど、その境界線に非常に近いところを歩いていることから、この項目をカテゴリに追加するよ。「チケット・トゥ・ライド」には拡張と独立したスピンオフがある。そして、その中にはどっちでもよかったように思うものもある。

また、こういったシステムゲームというのは、私が一般的に拡張を快く思っていない時に話しているゲームでもない。もし、システムを大層気に入っていて、そのシステムを十分に楽しく遊べるというのであれば、新しいマップ、新しいルール又は前述したカテゴリの組合せのある新版に興味を持つのは当然かもしれない。たとえ、そのシステムが「チケット・トゥ・ライド」、「パンデミック:新たなる試練」、それに「EXIT 脱出:ザ・ゲーム」のシリーズと同じくらい単純なものであろうが、COINシリーズ(※ざっくりというと、GMTが出版するウォーゲームのシリーズ。ゲリラ戦、非対称戦、対反乱作戦等をテーマとするVolko Ruhnkeが考案した非対称のカードドリブンゲーム。詳細はここを参照)や18xx系ゲームと同じくらい複雑であろうが、そのような興味を持つこととなる。

こういった基本的なカテゴリ分けを頭の片隅に入れた上で、ボードゲーム市場において大部分の拡張が低い価値しか持たないのかと私が思う理由について深く掘り下げていこう。先ほど述べたとおり、私の批判というのは、コアとなるゲームプレイを変える拡張を対象としている(そうなったのは偶然だ。)。

さて、なぜ拡張がクソなのかについては、次のとおりだ。

クレジット: W. Eric Martin

1:平凡なゲームに逆戻りする

ゲームが最高だったり、少なくとも拡張を出版する正当な理由があるほど十分に売れるというのであれば、優れたメカニズムの型を変えてしまうようなものが、基本ゲームに匹敵すると考える理由は全くない。だって、ただ平凡なゲームに逆戻りするだけだよね。

ほとんどの人は、物事がより一般的な状態に逆戻りするという概念(the concept of things regressing to a more common state of affairs)を理解しているけれど、どんな形で人生のほぼ全ての事柄に対して当てはまるのかを真に理解してはいない。

信じられないほど成功した人の子どもが両親と同じくらい大きな成功を収めることが非常に稀であるのは、なぜだろうか? 名声やお金によって甘やかされて育ってしまったのか? 期待に応えようとする重圧に潰されてしまったのか? いや、単純に平均値へ回帰しただけだ(※原文ではほぼ同じフレーズが繰り返されたので省略している。)。子どもたちの親がしたことは非常に例外的で稀なことなので、単純な確率のせいで、子どもたちは比較されてしまうと失望的に見えてしまう可能性が極めて高い。有名な両親を凌駕した活躍を見せたSteph CurryBarry Bondsがいるけど、足元にも及びすらしない子どもたちが何百万人といるわけだ。

それで、ボードゲームに当てはめてみよう。見事なゲームは、見事な拡張を保証するものではない。むしろ、新しいメカニズムが従前のものほど素晴らしくないのであれば、比較することで残念なもののように見える可能性が高い。

このことは、単純に基本ゲームを改善するような、ゲームを調整したりバージョン2.0にしたりする拡張には当てはまらないことを再度指摘しておくよ。「テラミスティカ:ガイアプロジェクト」は、「テラミスティカ」の型を洗練させたバージョンだ。けど、「テラミスティカ:拡張 氷と炎」は、当たり外れがあったよ(a mixed bag)。ルールの調整と新しいマップは素晴らしいが、新しい種族はバランスの問題があって基本ゲームのものほど魅力的なものではなかった。「テラミスティカ:拡張 氷と炎」は平凡に成り下がった。

2:本質的に不要

これについて言いたいことというのは、拡張には単純で明白な問題や疑問があるということだ。拡張の内容が非常に素晴らしかったのであれば、なぜ基本ゲームに取り入れなかったのか?

多くの場合、その答えは、拡張の要素が基本ゲームに取り入れられるようになる基準を満たしてなかったにすぎない。

今まで、お気に入りの映画からカットされたシーンを熱心に探し出したが、後になって、このシーンが映画からカットされたのには理由があると思ったことはないかい? というのは、ディレクターやデザイナーがカットすることを選んだものが残すことを選んだものほど良くはならないのは当然だよね。

さて、時には、十分に良いものだと考えられなかったのではなく、敢えて拡張のために残しておくという理由から、要素がカットされることがあるということはわかっているさ。けど、そうすることで別の問題を引き起こしてしまう。例えば……。

3:テストプレイ不足

拡張が基本ゲームでしたのと同じ程度の厳密さと徹底さでテストプレイがされることは、ほぼ絶対にない。単純に数学の話だ。拡張は基本ゲームよりも売れない。通常、拡張の制作の裏側で同じ時間とお金が注ぎ込まれることはない。基本ゲームが製作された時期に開発されたものがあったとしても、後々まで(※作業が)追い詰められてしまうので同じ程度のテストプレイはされない。こうなると、拡張が基本ゲームにバランスの問題を持ち込んでしまうこととなる。

4:ゲームのニーズではなく、市場のニーズを満たす

ゲームがデザインされてデベロップされていて、それが最終的にうまくいかない場合には、そのゲームは破棄されるか、全く異なるものに改変される可能性がある。拡張はこんな贅沢さを有していない。拡張は市場原理により製作される創作物だ。要は、ゲームが売れた、じゃあ、もっと稼ぐために拡張を作る必要だとね。デザイナー自身が売りたい素晴らしい拡張があると考えているかどうかにかかわらず、何かを世に出さなければという強いプレッシャーがある。

繰り返しになるが、これは素晴らしいアクション映画の続編のようなものだ。製作者には、成功を収めた1作品目の映画に構想があったが、続編については頭の中に素晴らしいアイディアを持ち合わせていないかもしれない。同じ製作者がやろうがやるまいが、続編は作られることになる。

クレジット: Ken Hill

5:そもそも売り方がイケてない

拡張は、より多くの要素、より多くのメカニズム、もしかしたら5人目のプレイヤー等を追加するといった寄せ集めのごちゃ混ぜになりがちなので、基本ゲームのファンが望む要素と望まない要素を含むことになる傾向にある。だが、拡張が欲しいのであれば、拡張全てについてお金を支払わなければならない。

このことは、モジュール付きの拡張において見られることがある。拡張の中の全てのモジュールが好きなんて滅多にないことなので、みんなは必要でもないものに金を払ってるんだ。現実に、モジュールは、イケてない内容の拡張に対する組み込まれた、ある種の言い訳のように思われる。気に入らなかったなら、そのモジュールを使わなければいいだけだろ!

私が、「アンダーウォーターシティーズ」の拡張である「アンダーウォーターシティーズ:新たな発見」を注文した時、なんで基本ゲームとほぼ同程度の値段である60ドルもするのか首をかしげたよ。そしたら、私は、両面のダブルレイヤー(recessed)のプレイヤーボードが8枚!!!!も入っていることに気づいたよ。そいつは、価格が高いこと全てを説明してくれるね。誤解しないでほしいんだが、プレイヤーはこういったプレイヤーボードを要望してきたし、当初のプレイヤーボードよりもはるかに品質が向上している(私のプレイヤーボードの1枚がミスプリントされていることを除けばね。)。

だけど、16枚のボード(8枚×2面)があっても、その全てを使用するわけではない。そのうち4枚は、新しい博物館モジュールでしか使うことができない。これには問題があって、プレイヤーは常に博物館モジュール用のボードを使うわけではないと思うんだがね。残りのボードはというと、半分は上級者向けのボードで、もう半分は初心者向けのボードだ。ほとんどの経験豊富なプレイヤーは上級者向けの面のみを使いたいと思うんだろうさ。その中には、新たな主要都市モジュールで使うものもあって、悪くはないんだけど、常には使用するわけではないかもしれないものだ。

そうすると、こういう新しいボードを全て手に入れることになるんだけど、ほとんどの人はその一部のボードしか使わないだろうさ。でも、使わないボードを含む全てについてお金を払っており、それは余計に多く払っていることになる。公平のために言うと、「アンダーウォーターシティーズ:新たな発見」には気に入ったところが多くある(冒頭に掲げたリンク先にあるレビューを確認してみてくれ。)。けど、安くはないし、十中八九使わないものにお金を払っているんだ。

クレジット: przemek piekarski

6:ゲームが膨れ上がる

元来的に拡張は、ゲームの時間を延ばしてゲーム自体を大きくするものだ。「The Voyages of Marco Polo: Agents of Venice」で触れたとおり、ゲームにおける類まれなる部分というのは、引き締まっていて余分なところがない中にあることが多い。そして、これに追加するということによって、焦点がぼやけてしまい、緊張感が弛緩し、ランダム性が多くなり、面白くもなくなってしまう。

ボードゲームの拡張は続編ではないので、私が用いた映画の続編というアナロジー(※喩え)は完全には当てはまらない。拡張というのは、映画の興行収入が良かったので、(※新たに)撮影しなければならない40分間の映像を追加して再公開しようと言われている監督なようなものだ。最適なコアとなるデザインとして選ばれたものに大量に要素を追加した場合には、拡張が肥大化しているように感じることが多くなるのは不思議じゃないよな。

ライジングサン」の拡張である「Rising Sun: Kami Unbound」は、引き締まったデザインを肥大化させてランダム化させる拡張の完璧な例だ。変に思わないでほしいのが、新しい氏族やモンスターを追加する「ライジングサン」の要素を追加する拡張は、全部素晴らしいものだ。それに、そういった拡張ではコアとなるデザインを変えていない。

しかし、「Rising Sun: Kami Unbound」は、予測可能性を低め、解析し難くする大量の新しいルールを追加する。別のストレッチゴールが必要だったので、CMONEric M. Langがキャンペーンに入れ込んだように感じる。この拡張はごちゃごちゃしていて、基本ゲームが大好きな私の知人の中では、この拡張を用いる人は誰もいないね。

7:印刷の問題

これは些細なところである。けど、拡張は、時として、基本ゲームのカードの色と拡張のカードが一致しないという印刷の問題を生じ得る(※原文にはタイポがあるので、適宜、意味が通るように訳している。)。これによって、ブチギレて怒り狂う人たちが発生する可能性がある。上述した「アンダーウォーターシティーズ:新たな発見」や、「Tyrants of the Underdark」の拡張である「Tyrants of the Underdark: Expansion Decks – Aberrations & Undead」は、この問題にひどく悩まされている。

8:評価を定めるのが困難

選択バイアス(※実験や調査の対象となった集団が、母集団を正しく代表できていないときに起こる偏り)のせいで、このBoardGameGeek上のレビューと評価によれば、全ての拡張が史上最高のものだということが判明する。ちょっと誇張して話しているだけだよ。拡張を買う人たちは、基本ゲームが大好きな人たちだ。そうすると、そういう人たちは拡張も大好きになるだろうね。別の言い方をすると、拡張は全て極めて高い評価だけれども、拡張を購入し、評価し、レビューする人たちは、基本ゲームにも極めて高い評価をつけている。だから、どの拡張が合わない可能性があるかを選別するのは困難だ。

はい、今回は終わり! 私がコケにした拡張全てをタグ付けしてやったので、選択バイアスによって、私のことを馬鹿野郎と思う人たちがコメント欄を埋め尽くしにくるのは確実だ。それでも私はみんなのフィードバック全てを喜んで歓迎しよう。覚えておいてほしいのは、私の記事のタイトルはさておき、全ての拡張がクソだと強く主張しているわけではなく、その割合が高いと主張しているにすぎない。拡張によって本当に基本ゲームが改善されたゲームの具体例が多く引き合いに出される可能性くらいわかってるさ。私は、基本ゲームを改善しなかったり、むしろもっと悪くしたりする拡張のほうが随分と多いということを主張したいというだけだ。

私はどちらのパターンも聞いてみたいね。どんな拡張がお気に入りなのかな? それとも、どんな拡張が大好きなゲームを台無しにしているのかな?

以上

※Anthony Faber氏の記事としては、他に以下のものがある。

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