【掌編小説】新しい#シロクマ文芸部
(読了目安2分/約1300字+α)
新しいグラス。最低でも二、三千円はするのだろう。細かなカッティングが入った色違いの綺麗なグラスがキッチンの洗い場に置かれていた。はやく洗わないと茶渋がついてしまう。ついてしまえ。
私は食器棚から以前、百均で購入したつるりとしたデザインのグラスを二つ取り出すと、冷蔵庫の麦茶を注ぎ、ダイニングテーブルへと持って行く。
彼は手を動かす様子もなく、ただ私の持ってきた離婚届を見つめていた。
「彼女はもう一緒に住んでるの?」
「……いや。まだ」
心の中で繰り返す。いや。まだ。
私が荷物をまとめて出て行ったのはほんの一ヶ月前だ。はなから住んでいるなんて思っていない。
いや。まだ。でも、いずれ?
「書かないの?」
「……いや、えっと。ペン」
彼は思い出したように立ち上がり、銀行からの粗品のボールペンを持ってくる。着座した彼はペンを置き、また用紙に視線を落として止まる。
「なんか、話が急展開すぎて」
「不倫ってそういうことでしょう」
付き合った期間も含めれば五年。私にはわかっているのだ。彼が気軽に考えていたことを。謝れば許してもらえると思っていたことを。
相手の女性のことも知っている。彼の職場の後輩で、あざとくて他の女性から嫌われ、尻軽で有名だから男性には好かれている。そんな女性と彼が付き合って同棲するとは思っていない。だが、これくらいのことをしないと彼が心から反省しないこともわかっている。
「不倫って」
「不倫です」
「……」
「ごめんの一言も無いの?」
「ごめんなさい」
違う。こんな謝罪が聞きたいわけではない。痛み出した右側頭部を抑えながら、私は離婚届を彼の前に押し出す。
「書きなさいよ」
折れ目がついてしまった用紙を彼は丁寧に伸ばし、先に記入していた私の文字を目でなぞる。そして、カチッと音を立ててボールペンの芯を出すと、その隣に書き出した。
私はテーブルの上から膝へ、震える手を隠す。片頭痛がめまいを起こす。椅子から倒れないように、そっと目を伏せて深呼吸を繰り返した。静かなダイニングテーブルではペン先が場違いなリズムを刻む。
彼はそういう人だ。私が告白したから付き合った。私が結婚を示唆したから結婚した。彼女が誘ったからセックスした。私が離婚届を書けと言ったから書いた。そういう人。
ボールペンを置く音がする。目を開くと、離婚届の空欄は埋まっていた。印鑑を手に戻ってきた彼は丁寧に捺印する。
指先は冷たいままだが、手の震えは収まったようだ。私は離婚届を手に取ると、綺麗な字で書かれた彼の名前を眺める。彼は字が綺麗だった。「とめ・はね・はらい」を忠実に守る。怒りのこもった隣の私の字が粗雑に見えた。
「里美」
私は思わずはじかれたように顔を上げた。気づかれないよう、口元に力を入れて仏頂面をつくる。彼は決心した顔で、私を見つめる。
「この届は、僕が出しに行くよ。こんなことでは何の罪滅ぼしにもならないだろうけど」
「 」
何と言ったのかは覚えていない。何かを言い捨て、私は手ぶらで家を出ていた。春時雨の中、駆け出す人々に追い抜かれ、濡れるのも気にせずゆっくりと歩く。わかっている。どんなにゆっくり歩いても彼は追いかけてこない。
雨が私の苛立ちと悔しさの熱を奪う。残るのは後悔と嫌悪。
左の指を切り落としそうなほど、はめたままの指輪が冷たかった。
シロクマ文芸部の企画応募です。
新年1つ目のテーマは「新しい」。初っ端からすみません🐤💦
この前から「離婚届」というモチーフが書きたいなぁと思っていたのですが、前回は出した瞬間主人公に破り捨てられてしまったので、再度書いてみたらこんなことに。次書くときはもっと明るい離婚話を心がけます。
開始3行目で破り捨てられた離婚届はこちら↓↓
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