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【掌編小説】ありがとう#シロクマ文芸部

(読了目安3分/約1800字+α)


 ありがとう。迷惑をかけてすみませんでした。

 買い物から帰ると、テーブルの上には書き置きと離婚届があった。反射的に破り捨てる。

 私はすぐに買ってきたものを片付け、家中を簡単に整えながら妻の名を呼ぶ。クローゼットの中やトイレ、バスタブ、隠れられそうなところも探す。玄関に彼女の靴が無かった。普段の履きやすい靴ではなく、余所行きの革靴で出たらしい。

 電話をかけると、テレビの横で着信音が鳴る。携帯を置いて行かれるとGPSで追いかけることもできない。私は携帯と鍵と、走りやすい靴で家を出た。

 妻が若年性認知症だと気がついたのは一年くらい前だった。何がきっかけで病気になったのかはわからない。時々物忘れがあったが病的なものだとは思いもしなかった。ただこちらの話を聞いていなかっただけだと思い、お前はいつも上の空だな、と声を荒げた。

 二日連続で買ってきた牛乳パックを見て、帰省していた娘から指摘を受けた。還暦にも届かない妻が認知症などとは私も妻もすぐには受け入れられず、娘に引っ張られるようにして行ったクリニックの話も俄かに信じられなかった。

 薬で進行を抑えられたとしても治るわけではない。妻はいつも何かを探していた。家の中に物があふれ、それが見つかるまでは(あるいは探していることを忘れるまでは)、片付けると怒るのだった。引き出しにシールを貼り、入っている物を書いておくことで、多少頻度は下がったが、それでも気になることがあれば夜中でも探し出した。

 妻からはいつも何かを相談されていた。初孫の出産祝いの品は、先方に渡すまで相談され、祝儀袋は二つも三つも用意されていた。すでに相談したことのある内容だと気づくと、妻は申し訳なさそうに謝る。はじめは内心苛立ちながら聴くのだが、背中を丸めて謝る姿を見ると悲しくなる。そのため、はじめて受けた相談のように、丁寧に聴くことを心がけた。相談の最後が「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」になるよう努めた。

 離婚届など、今の妻では取りに行くことは難しい。おそらく若い頃に「保険」として取得していたのだろう。書き置きの字と比べて、記入されていた字は若い頃のものだった。娘の世話を任せきりだったからだろうか。仕事の付き合いで飲み会が多かったからだろうか。いつ記入させてしまったのか見当もつかないことが悔しかった。それを置いて家を出ようと思わせてしまったことが悔しかった。

 近所の公園、コンビニ、最寄り駅へ走る。妻の姿は無い。ふとポケットに入れていた携帯が震えた。家の近所の喫茶店からだった。私は礼を言い、すぐに向かう。

 喫茶店に入ると、マスターがそっと窓際の席を指す。ステンドグラスの柔らかな光の下、アップルパイを食べる妻がいた。弾む息を整え、さりげない様子で向かいの席に座る。

「あら、偶然ね」

 妻は私を見ると、嬉しそうにほほ笑んだ。

「私ね、ずっとこのお店が気になっていたの。外観がお洒落で、一回入ってみようと思って。ねえ、このアップルパイすごく美味しいのよ。ひとくち食べてみて」

 無邪気に差し出したフォークを、私は素直に受け入れる。

「ああ、本当だ。とても美味しいね」

「そうでしょう」

 私の言葉に、妻は何度も頷く。

「こんなに素敵なところなら、もっと早く入ればよかった」

「そうだね。家からも近いし、今度は一緒に来よう。私ももう退職して暇なんだ。出かけるときは誘ってくれよ」

「そうね。そうするわ」

 本心からの同意だろう。何度目かの約束に、微笑み合う。

 退職前に家族で出かけることはほとんどなかった。時々娘がつきあう程度で、妻はいつも一人で出かけていた。もっと若い時から二人で出かけることがあれば違ったのかもしれない。最近の約束は記憶に残らない。

 妻が食べ終わるのを見届け、私は会計に立つ。マスターに小声で礼を言うと、彼は視線を下げたまま小さく頷いた。

 店の外に出た妻は、風を除けるようにマフラーに顔を埋める。

「ねえ、今日はクリームシチューなんてどうかしら?」

「いいね。寒くなってきたからちょうどいい」

「帰りに牛乳を買って帰らなくちゃ」

「実はさっき買い物に行ってきたんだ。牛乳も買ってきたよ」

「あら、そうなの」

「クリームシチューの材料はあるから、風邪を引かないうちに帰ろう」

 妻は少しだけ首を傾げ、私を見あげる。私は微笑み、彼女の背中をそっと押し、歩き出した。



シロクマ文芸部の企画応募です。

今回のテーマは「ありがとう」。

若年性ではないけど、身近に認知症の方はいました。同じことを何度も訊いてこられ、納得いただいたタイミングで結論をメモに書いてもらいましたが、それでも訊いてこられます。書いた記憶が無いとメモも意味が分からないし信じていいのかわからない。気になることが永遠に解決しない無限ループ。周囲も大変ですが、本人が一番不安で辛いだろうなと想像します。医療の発達を求む。

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