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【essay】 母の残像

母の日に寄せて…


街を歩けば、花屋の店先にさまざまな色のカーネーションが並び、広告メールには『母の日のプレゼントはもうお決めになりましたか?』という言葉が並ぶ。どちらも悪気があるものではないが、そういう母の日の状況を横目で眺めながら、「後にも先にも、私には関係ないわ」と思う。関係なさを自覚するために、少し早い母への思いを吐露してみた。
これで2024年5月12日は、知らん顔で通り過ぎることにしよう。

私の中での母の姿はとてもスローモーションな動きをしている。
それはとても不思議な感じである。
死を迎える間際、あれだけハードな、ある意味あれだけアウトローな生き方をした女だとは思えないくらいゆっくりとした動きを病院のベッドの上で繰り広げていた。
それは重篤な病気なのだから、そりゃ動きもゆっくりとなるだろうと客観的には理解しているつもりでいたが、どこか「この人は死ぬ時まで自分の欲望を貫き断末魔の雄叫びをあげながら死んでいくのだろう」と、こういう病気になる前からずっと思っていた。

生前はとても忙しい人だった。
忙しく動いてないと自分を見失ってしまうかのごとく動き回っていた。
いい意味では、働き者ということだろう。それはそれで悪いことではないのだが、彼女の欠点はそれを家族に、あるいは他人に強要することだった。
そして母の働きぶりは、家族のためというより自分の欲望のためだということに父や私は気づいていたが、気づかないふりをしていた。
そして、父や私はいつもそのことにうんざりしていた。

父と母は、熊本県の出身で両家で結婚を反対されて、駆け落ちをして大阪に出てきて結婚した夫婦だ。
駆け落ちまでして一緒になりたかったという情熱がありながら、父と母の夫婦生活は一気に熱が冷め、その後お互いに我が道を行くという形で結婚生活をしていくのであるが、父や母やその親戚筋からその一世一代の駆け落ち話を、まるで落語の一節のように耳にするたびに、男と女の関係なんて、何が本当で何が嘘なのかわからないものだなと、私は半分シラけた心持ちで聞いていた。

私が物心ついてから、母が専業主婦をやっていたという記憶がない。
常に働いていた。常に外に出ていた。
まず彼女自体が専業主婦が嫌いだったということに他ならないのだが、
母が私に常々に言っていたことは、「自分で働いてお金を稼ぎなさい。男に食べさせてもらおうなんて考えちゃダメ」ということだった。
小学生の私への教訓がそれなのだから、どれだけ肝が据わった母だったのだろうかと今でも怖くなる。

私が小学6年生の夏休み、ちょっとした事件が起きた。
その夏休みに、私は初潮を迎えた。
学校の保健の時間に女性の生理のことについては教えられていたので、そのこと自体に驚きはなかったが、突然のことだったので自分用の生理用品などは準備してなくて、母が所有しているナプキンを使わせてもらおうと思って、母に「生理になった」と告げた。
それに対して母が発した言葉というのは…
「あんたも紛れもなく、女だったんだね」
何を言ってるのかわからず母の顔を見ていたら、ナプキンを袋から出しながら続けてこう言った。
「よく覚えておきなさい。それがあるかないかで、女は男より苦労することがこれからたくさんあるんだから…」
「どういうこと?」って聞いたら
「もう男のように自由には生きられないってことよ」と、彼女は言った。

母は男になりたかったとか、女が嫌だったとかではなく、今の若い女性たちが普通に思うように、男だから女だからという枠にがんじがらになるのが嫌な人だったのだと、私は大人になってわかったが、しかしその当時はそんなことを口に出していう女性は私の周りではいなかった。
母は少し早く産まれすぎたのだと思う。今なら何の苦労もなく自由に自分の人生を生きていたのであろう。
そんな母を今では誇らしくも思うが、私の中で母のことを尊敬する部分と嫌悪する部分が半々にあるのは、たぶん父のことを考えてしまうからだろう。
男尊女卑のメッカであった九州の片田舎で育った父にとって、素直に母のそういう生き方には賛同できなかったと思う。父の様子を見ていて、それに賛同しろという方が無理な話だと私は子どもながらに思っていた。
私は大人になるにつれて、いろんな人と交流をもったり海外に出たりしているうちに、母の考えが特別なことではないと徐々に理解していくのだが、父は最後まで受け入れることができなかったのだろうと思う。

私が演劇で初舞台を踏んだ時、普段そんなことまったくしない母が、
初日に朝から早起きをして、劇団員全員分のおにぎりを握って、楽屋に差し入れたことがあった。
そんなこと頼んでもやるような人じゃなかったから私が一番びっくりした。先輩俳優さん達から「優しいお母さんだね」と言われて、正直返答に困ったのを覚えている。
後にも先にもそれが最後だったが、『優しい母』というのに触れた瞬間でもあった。厳しいことを言う母と優しい母、どちらも本当だと思うが、やはり最後はこんなスローモーションではなく、ちゃんと私の目を見据えて「じゃーねバイバイ」とでも言って旅立って欲しかったと思うのだ。

葬儀の後、とてもミニマムサイズになって箱に収まった彼女を抱えて。
「いろんな人を巻き込んでさぞかしいい人生だったでしょうね」と、声をかけたのを今でもはっきり覚えている。

「母の日なんてちゃんちゃらおかしいわ」と言っていた母だから、今更カーネーションなんて飾っても喜ばないだろう。だから飾る気持ちはないけど、「あなたのことはずっと忘れないから」と、声をかけることにしよう。

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