かつてのBeテイストで「天理教の後継者問題」について語る
藤田一憲氏が7月9日のnoteに投稿した
『安倍元首相銃撃事件に思う』
と題した記事を読み、強い共感をおぼえた。この記事の中で藤田氏は
と書いている。
この一文の中には宗教二世問題の本質を語る上でとても大切なものが含まれているように思う。
私はこの言葉をきっかけにして、再びこの問題を取り上げてみたいと思った。
以前に『宗教による無自覚な人権侵害』でも書いたが、安倍前総理射殺事件の際に、犯人の背景にある宗教2世問題の闇に多くの人が関心を持ったと思うのだが、続けて起きた「エホバの証人」問題がそれを加速させたと感じている。
この傾向を敏感に察知し、信仰に起因する人権侵害の問題について、思い当たるふしのある宗教団体は謙虚に、そして真摯に見つめ直す時期にきているように思う。無論、天理教本部も「他山の石以て玉を攻むべし」とすべきである。
現在の天理教組織に内在する問題点を、俯瞰的に見極めているのが天理大学おやさと研究所の金子昭教授だ。
宗教二世問題についても本質を突く提言をされている。ちなみに金子教授は天理教の教会に育った方である。
たとえば
『毎日新聞』のweb版で
――(宗教団体の *1)後継者育成は教団にとって深刻な課題なのでしょうか。[*1は筆者註]
という問いに対し、
と回答している。
天理教の後継者問題(天理教では宗教二世問題を後継者問題と言うことが通例である)は教会の多くが家族で運営されていることから、その問題が発生しやすい土壌にあると看破している。
また、育成する立場の者が成功事例を語るだけではなく、失敗した、あるいはうまくいっていない事例こそ精査すべきだとも提言している。
天理教に限らず、神さまから御守護いただいたケース、つまり成功事例にこだわるのが宗教団体の常なのかも知れないが、そこに万人に共通の再現性があるとは思えない。置かれている立場や人の心の在りようは十人十色なのだから。
更に教会後継者や子弟が置かれる環境を考える時、
と、現実を捉えた発言をしている。
これは天理教を信仰していない女性が教会に嫁いだ場合にも通じる現象であろう。教会後継者が嫁探しに苦労するのも、こうした教会生活でのハードルの高さが影響していると思われる。
金子教授は、その前年に『中外日報』に寄せた『宗教二世問題を考える』という記事で
と語っている。
こうした状況が、冒頭で引用した藤田一憲氏の
という嘆きをもたらした原因の一つであると考える。
畢竟、我々は「伝える」ではなく「伝わる」信仰をするべきなのであろう。
金子教授は天理教を含めた宗教団体の二世問題について結論的に言う。
と。
教会長といい、信仰家庭の親といい、どれだけ深く教えを追求し実践したとしても、我々は完全な人間にはなれない。どこまでいっても道半ばであるのだ。
それはどれほど代を重ねた信仰を持つ者であったとしても同様で、逆に「代を重ねた高慢」に気づいていない場合もある。「神仏の威を借りたおごり」とは言い得て妙である。
我々は埃を積み重ね、親の徳を食いつぶしているやも知れぬお互いであることを忘れてはならない。
金子教授が言う「後継者の育成に失敗し、子供が信仰から離れていった事例を精査すること」は、すなわち親の信仰姿勢を質すことにも繋がるだろう。
「子供に伝えよう」とする思いはもちろん大切だ。だが「伝わらない」ことで生じた結果が現在の後継者問題であることを謙虚に受け入れるべきではないのか。そして失敗事例の原因をこそ精査するべきではないのか。
講演会などで後継者育成に成功した少ない成功事例を称賛しているだけでは、永遠に解決の糸口を見つけることなどできないであろう。
また、天理教の後継者問題を考える時、多くの末端教会や信者家庭にみる経済的な苦境が大きな影響を与えていることは間違いないと感じている。
教会や信仰家庭の貧困の原因の一部が、無理な御供に起因しているケースは多い。
”窮すれば鈍する”を地でゆく親の姿を間近に見て育った子供が、成長過程で未来に希望を見いだせずに信仰を離れるというケースとは逆に、経済的困窮を”貧にして楽しむ”ことができた子供がまっ直ぐに成長し、信仰を継承したケースはもちろんあるだろう。だが、そうした子供ですら自分が親になった時に、自らの辛い経験をわが子にさせたくないと考え、信仰を伝えないということも起きている。
このような、貧困による後継者離れの問題について検証しようとすると、必然的に御供と組織の在り方にも斬り込まざるを得なくなるが、それについては過去に書き尽くしているので、これ以上は触れない。
繰り返しになるが、天理教の後継者問題は成功事例主体の正論ばかりの議論では問題解決のとば口にも立てないであろう。
子供に対して、有無を言わさず強制的に伝えようとするのではなく、親の姿や心根から自然と伝わっていく信仰のカタチとは何かを、教団をあげて真摯に問うことなくして、天理教の未来はない。
ではまたいずれ。
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