「好奇の目で見られんぞぅー、俺の女だっつったらァ」 けんけんが、オールディックフォギーの伊藤さんや他のメンバーとの飲み会を、参加者の名前を次々と挙げながら自慢してきたので「いいなァ」と羨ましがってみせたときの返しである。 世間にはテレビに出ている人間の股周りが気になって仕方のない人や、私小説をノンフィクションだと勘違いしている方が存外大勢いるようで、私たちのような冴えない中年カップルでさえ遠慮なくスマホを向けられたり、どこぞで買い物しているだのと書き込まれたりした。
俺の賢太を返せ!と暴れる方は、お読みにならないでください。 ネタバレ厳禁でお願い致します m(_ _)m 大正8年生まれの母方の祖母の家は津軽の出で、太宰治と同郷の阿部合成という画家と遠縁だと聞いているのだが、それで、けんけんの来ていたマンションには、阿部合成の油絵が掛けてあった。 最初その油絵を見て、「気持ち悪いから外せ」と、まるで「絵なんか掛けて気取ってやがる」と言わんばかりの態度だったが、由来を聞かせて「田中英光 ⇒ 太宰治 ⇒ 阿部合成 ⇒(一気に飛んで)
拙文を載せて頂けることになりました。 是非ともお購めくださいませ。 自分の名前が横尾忠則と並んでいるとか、ちょっと自分でも何が何んだか、頬っぺたをつねっておりますが、けんけんが亡くなってから、西光寺のご住職に始まり編集者の方、作家の方、仲の良かった方などなど、生前お付き合いのあった方々に厚かましくも次々と「お話を聞かせてください」と声を掛けさせていただいていた中での、瓢箪から『Hanada』、いえ、棚から『Hanada』です。 こんな、表紙に載せて頂けると思っておらず
西村賢太が子どもの頃から大好きだった横溝正史は、 そうで、けんけんのことだ、当然こんなことは知っていたろう。 田中英光も藤澤淸造も、本名である。
サウナ(「ロスコ」についてはこちら⇒『天狗』)行って、万富さん寄って焼き鳥買い込んでから、うちに来てくれたこともあります。 「あんたに食べさせたかったんじゃ!」とか言ってて、「『赤い脳漿』か!」と思いましたが、嬉しかったです。 なんちゃって方言は、横溝正史の読みすぎ、観すぎのせいです。 焼き鳥は好きで、スーパーでもよく、お葱と一緒に串に刺してあって自分で焼くタイプの、パックになったやつを買っていました。 添えるレモンは櫛形です。 食べさせたがりは性分で、他に
私のような素人が、こういう本、いや、資料を手にするのは初めてだ。 サイズはA4である。 パラパラとページを繰ると、藤澤清造と田中英光の名前が多いのは当然として、ドストエフスキーが多いのにビックリする。カタカナだから目立ち易いのもあるのだろうが、「ドストイェーエフスキー」とか「ドストエフスキイ」という古めかしい表記の本も多い。 カバーの青は、けんけんが30代の藤澤清造研究者だった頃、石川近代文学館へ行っていた時分に着ていた青いワイシャツをイメージしてもらったのじゃな
「えぇ? 大卒w? どこ?」 最初の電話で最終学歴を尋ねられた。
それにしても、此度多くの方が見て下すったのは、偏に下のまとめサイトのお陰であろう。 それが証拠に、西村賢太と古書についてなぞ書いてみても、ほとんどどなたも読んでは下さらないのである。 で、そのtogetterの「なんで今さら…?」という問いには、近しい人を亡くしてみたら、しかもそれが才能と気骨のある作家で、書きかけの小説があってましてやあと一話で完結と云うところだったのに、まだまだこれから書きたいことが幾らでもあったのに、54歳という若さで亡くなった無念を想ってみた
もしや私の記事にスキをして下すった方なら、目にされているやもしれない下の写真だが、これは「趣味の古書展」といって数か月に一度神保町古書会館で開かれる展示会の、目録の写メで、私が西村賢太に送ったものである。
寝て起きたら、数週間前に書いた記事「西村賢太と似非フェミニズム」の閲覧数が1000も2000もあり、えバグってる?と思った。 何しろ1週間で、これ ↑ が、こう ↓ … 従前、首位を独走していた「葛山久子「親愛なる西村さんへ」)を、アレヨと云う間に抜き去ったのである。某女史、ごぼう抜きである。 それはいいとして、少々怖気づき、それでもって有料設定にしてみた途端、一夜にしてドドドッと付いたスキは、どうなったか? …波を打ったようにピタリと止んだところを見ると、どう
『一私小説書きの日乗』(西村賢太)にときどき登場する晩酌メニューに、「”手製”の目玉焼き」があるのだが、『日乗 這進の章』の連載されていた『本の雑誌』では、追悼号(2022年6月号)で文字起こしの担当者が、焼き加減はどうだったのだろう、と書いていた。
これはある編集者の人が書いた、私のことだ(『本の雑誌 特集 結句、西村賢太』2022年6月号)。 2015年頃だかに「西村賢太」でエゴサをしていたら、ファンの人が、挫・人間も好きだと書いていた。 知らないバンドだったが、西村ファンの好きなバンドならば、と思ってYouTubeで見てみたところ、歌詞があまりにも私小説すぎて、ビックリしてしまった。 何しろ作詞者の名前がタイトルや歌詞に出てきて、しかもそれが1曲ではすまない。 ボーカルの下川リオの自画像が、全曲に
随筆集『下手に居丈高』は、「週刊アサヒ芸能」に連載されていたものが単行本になり(2014)、文庫本になり(2017)、したものだ。 連載当時私はこの週刊誌を買って読んだり立ち読みしたりしていたが、いつどこで撮られたものか知らないが、珍しいスーツ姿の写真が載っていて、毎回これを見るのも楽しみだった。それが男前で本当に格好よかった。 『下手に居丈高』文庫本のほうの表紙は、西村賢太本人のモノクロ写真が上下に2枚並ぶ。
私たちは日々の買い出しにあたって、買いそびれのないよう、A4のコピー用紙を4等分してクリップで留め、裏にメモを付けていた。 記憶力のよい彼は当初、記憶を何んでも外付けにしようとする私のこの習慣を呆れていたが、思い描いた通りの晩酌にありつくには必要だとの認識から、次第に自らもこれをするようになり、お互い思いついたときに随時書き加えておく習慣がついていた。 「何これ、TPって?」 「ティッシュペーパー。もう、なくなんだろ」
私は西村賢太のファンなので、50年後も100年後も、彼の作品が読まれてほしい。 西村賢太が人生を棒に振る思いで復興した藤澤清造の作品も、できれば読まれていてほしい。 そのためには、50年後にも100年後にも、日本語がなければならない。 そのためには、まず日本がなければならない。 勿論、他国に従属していようがいまいが、愛国心から漢字を廃止すべきだと言う人はいたし、反対に、日本が占領されていた7年のうちに日本語が廃止されなかったというのも事実だ。 が、日本がな
西村賢太は亡くなる4年ほど前に目の手術していて、その眼科の先生を、「ツボちゃんに似てんだよなァ」と言ったりしていた。文芸評論家の坪内祐三氏のことである。