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私を支えている祖母の記憶/アダルトチルドレン 適応障害

今日はなぜか、祖母のことをずいぶんと思い出した。

存命ならば99歳。91歳で亡くなった。
いつも私の近くにいてくれた祖母だった。

幼少期は離れたところに住んでいたので、久しぶりに会えると別れるのが嫌で、私は毎回呼吸が苦しくなるまで泣いていた。
帰りの車の中で、父と母に「いつまでも泣くんじゃない」と毎回怒られていた。


私が10歳の時に隣同士で住むことになったので、毎日毎日一緒に過ごした。
私は病気がちだったので、寝込むといつもお粥と特製スープを部屋まで持ってきてくれた。看病してくれたのは、母よりも祖母の印象だ。

学校や習い事に迎えに来てくれたのも、
ピアノを習わせてくれたり、歯列矯正をさせてくれたりしたのも、祖母だった。
料理や裁縫を教えてくれたのも、夏休みの宿題を一緒にしてくれたのも祖母だった。

学生時代、生活費や授業料をサポートしてくれていた。車やパソコンが必要になって相談すると、それも「いつでも言ってね」とサポートしてくれた。
普段は倹約家だった。家計簿をつけて、年金で生活していた。


祖母は東京大空襲で橋の下から火の海を見上げたり、機銃掃射から逃げたりした人だった。疎開をして貧しくて、嫁ぎ先でいじめられて、ずっと裏方に徹して、早くに祖父を亡くして、苦労した人だった。

母が亡くなった後、そんな祖母が、祖母の娘である私の母のことを説明したときに「そんな辛い思いをさせて、助けてあげられなくて、ごめんなさい」と泣いた。
80代の祖母に「あなたの娘のせいで、私はこんなにも生きづらい」と告げるのは心が痛んだが、分かってもらえたことがその後の私の支えになった。


両親のことを考えると、私はよくグレずに済んだと思うのだが、それは祖母がずっとそばにいてくれたからだ。
私は、祖母に育ててもらったんだ。
本当に大好きだった。


祖母は、亡くなる前の3〜4年は認知症だった。
鏡に映った自分に果物を一生懸命渡そうとしたり、丸めたタオルを赤ちゃんだと思って大事に抱えていたりした。
認知症が出始めたのは私が仕事を始めた頃だったので、一緒にいる時間が短くなっていた。
まだ祖母自身に認知症になった自覚があった頃なので、一緒にいてくれない私のせいだと、祖母は泣いた。

どうしていいか分からなかった。
私はシングルマザーで、働くより他なかった。
どんどん祖母の認知症は進んだ。

その後、祖母はホームに入ることができて、私の事は完全に分からなくなって、
でも、私が会いに行くと、小さい子供みたいに喜んでくれた。


そういえば、私の名前をつけてくれたのが祖母だった。


会いたいなぁ。
祖母と、飼っていた犬には会いたい。

子どもには「まだ早い」と言われるけれど。

この休職中、もし祖母が生きていたら
なんて、声をかけてくれただろうか。

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