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なるほど社会の到来

たいへんご無沙汰しています。枚方コワーキングHOOP!管理人の中岡ごうです。HOOP!の営業時間は9:00〜18:00なのに、だいたい毎日、8:00にはオープンしています。フライングオープンです。

一点、共有事項があります。


先日、枚方を発信されている「おとぎメディア」の深川さんから、noteを読んでいただき、すっげえ褒めていただきました。ただ、ものすごく嬉しかった反面、ちょっと胸がちくりと痛みました。なぜならば、僕は基本的に、noteは書いたら見直しをしませんし、加筆修正もやらんからです。

最後まで書き切ったら、強調したい箇所を太字にして、すぐさま投稿ボタンを押す。そんな感じです。なのでお褒めいただいた際には、読み手を裏切っているような罪悪感が芽生えました。

もちろん、投稿してから何らかのタイミングで読み返したときに誤字脱字や表記揺れなどがあれば修正しますけど、基本的にはほぼ修正はしません。そんなおっちょこちょいの文章もそれはそれで伝わるし、ええかーって思っています。

なんでそんな感じなのかと言うと、脳みそから一番初めに出てきた言葉やニュアンスを大事にしたいんです。たとえ、それが読み手に伝わらないとしても、です。ほんま、自己中心的な文章ですよね。すみません。

なので、「何が言いたいのか、ワケワカメ!」「よくこんなクレイジーな文章を公開したな!」「辻褄あってないぞ!」などの違和感があったとしても、大目に見ていただけると幸いです。

やたら「なるほど」と言ってしまう。


そんなしょうもない共有はいいとして、今日の本題なんですがみなさんは昔、こんなに「なるほど」って言ってなかったですよね、たぶん。僕はというと大人になってから「なるほど」と言う数が確実に増えたと断言できます。少年期対比で2000%くらい、もしかすると成人するまで「なるほど」という言葉は僕の口から出たことはなかったかもしれません。

子供の頃に「なるほど」と言った記憶はないですし、むしろ「なるほど」とか言ってる子供を見ると「大阪住んでるねんから、なるほどなんて使うなや」「なるほどなんて言葉、なるほどザワールドしか使ってるん見たことないわい」と偏見丸出しの考えを持っていたように思います。

じゃあいつくらいに僕が「なるほどデビュー」したかと言うと、おそらくサッカーを辞めた30歳くらいからじゃないでしょうか。理由はわかりませんが、僕のことですからおそらく、「サッカーを教えていたときはお山の大将だったけど、これからは会社に入社し、組織の一員になるわけだから共感や同調をせなばダメ人間やぞ!」と潜在的に感じ取ったからだと予想されます。

なるほどに溢れている。


46歳になった現在では、僕や僕の周りの人たちも、1日一回は「なるほど」と言っています。(推測)3人の大人がずっと「なるほどー」という言葉しか使わずに会話しているのも何度も見たことがありますし。

しかしながら、「それってほんまになるほどって思ってるんかいな?」と思うことも1日一回はありますがね。

相槌化した「なるほど」


意を決して僕は、約3ヶ月間、一人ひとりの「なるほど」を聞いてみました。わかったのが、「へー」とか「ほー」とか「ふーん」とか「ほうほう」とか「うんうん」とか、相槌のごとく使っているということです。これは興味深い!

相手の話に対しての「同意」や「理解」というよりも、「ワイは敵意ないですよ」「仲間ですよ」「安心してください。履いてますよ」みたいな感じで使っているんです、多くの人たちが。心理的安全性をつくる言葉として有効なんです。

承認欲求を満たせる「なるほど」


それともう一個、気がついたことです。

現代人は承認欲求に縛られていると言われています。そうなっちゃったのも、SNSの影響が大きいでしょう。

たとえば、XやInstaで投稿したら、「何らかの反応をしてもらいたい」とか「たくさんの人たちに見てもらいたい」とか、できる限りの反応や共感を得たいという欲求は少なからず、みなさんあるでしょう。

だから、共感をしてもらいたいし、共感したい。その表れとして「なるほど」が多用されているのではないかと考えています。

便利さを追い求めるがゆえの代償


そもそも、「なるほど」と言われて、嫌な気持ちにはならんですよね。「なるほどー!!」「な、な、な、なるほどー!!!!」という反応が返ってきたら、理解してくれた!共感してくれた!と嬉しい気持ちになるはずです。反面、なるほどと言ってくれない人に対するアンテナは敏感になっていて、炎上やアンチなんかを恐れるのも、その象徴と言えます。

「なるほど」が自分であることを奪っていくリスク


波風立たせずに日々を過ごすことができる言葉としては、「なるほど」は優秀です。しかしながら、なんでもかんでも理解できる、理解することを日常的に求めるがあまり、「人に理解できないことはやらない」とか「出る杭にならんとこう」とか、個性を損なうような生き方になりやしないかと心配でもあります。

便利な言葉ではありますが、自分がどうしたいかも大事にしていかねばなりませんね。気をつけねば。


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