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此処まで話して来たように、わしが通り谷用水を開いたのは一身一家のためではない
加茂、土師14か村275町歩の耕地が水不足に苦しんでいたからじゃ
少しの日照りにも水喧嘩が起こる
一々お役人に頼んで水を分けてもらわなければならぬ
文政元年の日照りは酷く、藩のお助けが無かったら誰も命を保つことは無かっただろう
目の前で稲が枯れて行くのを見て、もうじっとしている場合では無いと、通り谷を抜いて八東川の水を引くことにしたのが70歳の頃だった
工事を始める前の設計がなかなかで、わしは通り谷の道を何回往復したか分からぬ、通り谷は岩山だから掘り下げるわけにはいかん
そこで掘り抜くことにしたのだが、120間を4尺の幅で6尺の高さで掘るのは大変な工事だった
処々に明かり取りの窓を掘って、方角を間違えないようにしたのだが、1間を掘るのに40人以上の人を要したように覚えている
藩のお許しが出て工事に掛かったのが文政3年5月で、完成したのが文政6年4月だった
藩からは少しの費用も出ず、自分の持田を金にして払うしかなかったのだ
70町歩の田が今では10町歩あまりになってしまったが、これでこの地方の人々がみんな助かっているのだから、それで良いのだ
その人達の笑顔でわしは満足だ
家の盛衰や子孫の貧富を考える前に、開墾に注意し水路を保護してくれ
それがわしの願いだ…
と言って伊右衛門は77年の生涯を終えたという

これは鳥取の石破さんの出身地、郡家の篤農家の話ですが、こういう話は各地に残っています
水戸黄門では、代官が悪徳商人から賄賂を貰って…という話が多いですが
こんな篤農家を助さん格さんと共に助けるという話が出来ないものでしょうか😅

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