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王様は裸じゃないかと言おう ~エビデンスを見つける前から現象はそこにあるのだから ~

麦飯男爵VS天才文豪医学者

脚気予防のヒントは「貧乏人ほど米ばかり食う」という発見から

有名な「脚気」の治療の話をする。
全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に1人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2~6%だったとのことだ。イギリスで医学を学んだ高木兼寛は海軍医務局副長就任以来、本格的に海軍の脚気対策に取り組み脚気と栄養に関連があることを派遣、海軍の兵食改革を進めた。その結果、海軍における脚気新患者数、発生率、および死亡数は明治16年(1883年)から同18年(1885年)にかけて激減したとのこと。

この発見のきっかけとして、明治15年にハワイでの遠洋航海中に脚気患者が続出し長期停泊追い込まれた際に、積んできた食料を廃棄し、代わりに積み込んだ肉野菜を乗組員に与えたところ患者が元気を取り戻したとした話が有名だ。しかし、ことの始まりは高木は明治13年に脚気の研究を始めた際に「貧しい食物をとっているもの〔下士卒・囚人)ほど脚気に罹る率が高く、貧しい食物は炭水化物が多くタンパク質が少ない」ということを突き止めたことだった。最初は「たんぱく質」不足だと思って食事を改善したら、それが功を奏したわけだ。のちに彼は親愛と尊敬の情から、そして一部から揶揄の意味を込めて「麦飯男爵」と呼ばれるようになる。

のちの研究で不足していたのはたんぱく質ではなくビタミンだとわかるが、農学者の鈴木梅太郎がオリザニン(のちのビタミンB1)の論文を発表する明治44年まで機序のエビデンスはなかったのだ。論文もエビデンスもないが、目の前に明らかな現象があった。

ともあれ高木の功績で明治18年以降兵食を蛋白の多い麦飯に切り替え、海軍での脚気はほぼ根絶する。一方、当時の陸軍軍医総監石黒忠恵は、脚気伝染病説を信じていた。その理論的根拠が明治18年ライプチヒで陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が書いた論説「日本兵食論大意」だ。帰国後森は高木を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、露骨な非難を浴びせたと伝えられている。

ところが日清戦争では、陸軍の戦死者がわずか293人にたいし脚気死者は3944人。日露戦争では陸軍の戦死者約4万7千人、そのうち脚気による死者が約2万8千人。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかったという。
(死者数は公益社団法人ビタミン・バイオファクター協会HPより引用)

公益社団法人ビタミン・バイオファクター協会「本協会の歴史」より

間違っていると気づいた後でも続く医学権威禍

どう考えても森林太郎の落ち度なのに、当時の陸軍は森林太郎を会長として明示41年に「臨時脚気病調査会」を結成してしまうのである。東京帝大やら京都帝大やら、医学権威のお歴々である。間違っていたことは明らかなのに、間違った権威にまたもや兵士たちの命を預けたのだ。

調査会の発足式が開かれる直前、森林太郎は北里柴三郎らと来日中の細菌学者ロベルト・コッホを訪ねた。世界的な疫学の大権威だ。その大権威が「ンガポールやスマトラで流行するベリベリという伝染性に似ている」と言う。「こりゃあ、もう細菌説間違いなし。だって世界的権威が言うんだから」と、栄養不足説をまたもや一蹴。
 
実はコッホもベリベリ病調査する一団をインドネシアに送っているのだが、そこで白米を食べ病気を発症するニワトリを見たクリスティアン・エイクマンは「栄養の偏りが原因では?」と気づいてしまい調査団を外されるという一幕があった。まったく医学的権威というのは古今東西似たり寄ったりであるというエピソード。

もちろん日本でも東大医学部卒のエリートで文学者としても著名な森鴎外率いる医学の権威派閥に医療者の誰も盾突くことができずにいた。

しかしだ。これほどあからさまな差を見せつけられて、本当に森も陸軍も気が付いてないとかあり得るか? ひとつの証拠が残っている。陸軍衛生制度史という本に明治38年3月10日の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」にこのように書いてある。

「出征軍人軍属には脚気予防上麦飯喫食せしむるの必要あり」

陸軍衛生制度史684コマ目。森林太郎が陸軍一等軍医とある。

脚気に麦飯がいいのはわかってた。でもおおっぴらに麦を送れなかった。戦時中麦不足で送れなかったという事情もあったろうが、では高木のように「米以外のなにか」を食べるようにする方法もあった。だが脚気栄養不足説を否定しているのに、そんなものを大々的にやれるはずもない。

どう考えても医学の権威の方針が間違っていて大勢の兵士が命を落としたと言うのに、鈴木がオリザニンを発表してなお権威たちは「百姓学者に難病を治せるはずがない」と脚気栄養不足説を認めなかった。
だが結局森林太郎を会長として始めた臨時脚気病調査会は、森林太郎が大正11年に亡くなった翌々年、「脚気はビタミンB欠乏」と認めて解散とあいなる。最後の最後まで森は細菌病説を曲げなかったのだ(本当はわかってたのに)。

森林太郎が死去し、ようやく調査会は脚気の原因が栄養不足だと認めた


ゼンメルワイス反射

産褥熱から女性たちを救ったのは患者の訴え

これもまた有名なゼンメルワイスのお話。有名すぎるので端折りながらご紹介。
ハンガリー出身の医師イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイスがウイーン総合病院にいる時、第1産科の産褥熱による死亡率は約13%(18%とする文献もある)、第2産科の死亡率はわずか2%という事実に出くわす。第1産科では主に医学生の教育を行い、第2産科では助産婦の指導を行っていた。あるとき、友人医師が死体解剖の授業中に過って指を切ったあと感染症にかかり死亡。死因の究明中、産褥熱で死亡した女性患者と非常に似ていることに気づき、クリニックの統計調査を行い原因が施術者の手についた「何か」だと思い至る。そこで解剖室から検診に向かう医師たちに手を消毒することを義務づけ、死亡率を激減させたという大功績だ。

さて、ゼンメルワイスが「第1産科の産婦のほうが死亡率が高い」と気づいたきっかけはなんだったのか。これについては逸話ある。代表的なものを紹介する。

ある日、病院で一人の若い妊婦が 泣いているのを見て理由を聞くと、分娩のために第二産科入院を希望したが、 第一産科に決められたので悲しい。あそこは産褥熱で高率に死亡するからとい うことであった。

「健康文化2005年40号 産褥熱予防とその認知を拒んだ時代背景/青木 國雄」


これはお医者先生の書いた文章でややおしとやかだが、文献によっては第1産科に運ばれるとき「殺される」とパニックになっている女性がいた等の表記もある。

つまり女性たちは統計的エビデンスも機序もなにも知らないうちから、医学生のいる第1産科に行くと自分たちの身があぶないということを悟っていた。だって死亡率が6倍以上だもんね。それを受けてゼンメルワイスは統計をとったら、やっぱり第1産科でめちゃ死んでると。機序もよくわからないけど、因果関係を調査し解決策を見つけたゼンメルワイスは素晴らしい。だって目の前にある現象を無視しなかったんだから。

目の前の現象よりも自分たちの知識を重要視する医学権威

ここからの展開も有名な話なのだけれど、これだけの功績を果たしたゼンメルワイスを医学会は称賛するどころか手ひどく非難した。既存の学説に合わないとか、医師の手は汚れていないとか、つまり「自分たちの知識の外にあるから」「医師を愚弄しているから」という理由で、多くの妊婦を救う可能性を捨ててしまったのだ。最初はおとなしかったゼンメルワイスもついにはキレてしまう。先ほどのコラムから引用する。

ひたすら欧州中の医師、研究者を説得使用とし、高名な産科医、学者に対し、学会誌上で公開質問状をだした。これは異例なことであり、こうした公開質問状に答える人は稀であった。かれはさらに繰り返し質問状を送り、その中には、今まであなた方は私を強く非難したが、私の方法は間違ってなかった。今度はあなた方を私が非難する番であるとして、「手を消毒しないで出産に立ち会う医師は殺人鬼である」とののしる手紙を送った。これはしつこく繰り返えされたので、その非常識な行動にたいして、ゼンメルワイスは偏執狂ではないかという評判が立った。彼は医師ばかりでなく、看護婦、患者、一般人にも感染予防の重大さをところかまわず訴え、また路上で説法をし、パンフレットを配布したという。

産褥熱予防とその認知を拒んだ時代背景

ゼンメルワイス、よくがんばった。
昨今、コロナの件でパンフレットを配るお医者様方と重なって見えるね。
でもこれだけやっても彼を認める学者はあまり顔を出さず、失意のままゼンメルワイスは亡くなってしまう。
後世「通説にそぐわない事実を拒絶する傾向や常識から説明できない事実を拒絶すること」をゼンメルワイス反射というようになったらしいね。


医師や学者の太鼓判がなくても、今見えているものを見えると言おう

ゼンメルワイスの「手についている何か」というのは細菌だったりウイルスだったりという病原体だと、のちにロベルト・コッホなどが細菌発病説を確立し証明する。そこでようやくゼンメルワイスの理論の正しさを皆が認めざるを得なくなる。なんでも認められるのは係争の本人が亡くなってからだ。

皮肉なことにゼンメルワイスの理論を実質的に証明したコッホも、自身が権威となれば、脚気のような謎の病気を「感染症」だと決めてかかってしまい、その権威で多くの「発見者」を潰してしまう。

上記2つの物語での主役は「医師」や「学者」だ。「やはり栄養管理重量よね」「手洗い大事」と過去の医学者を称える声には賛同するが、我々が得なければいけない教訓はそこではない。大切なのは

今見えている現象を権威が掲げる理論で潰してはいけない

ということだ。

私たちが新型コロナ騒ぎが始まったころ、行動制限の無意味さ、マスクを外した国よりマスクをし続けた国の方が感染者や重症者が増えること、ワクチンによる死者が多いことなど、今目の前に見えている現象をいくら伝えても「エビデンスがない」「お前は医師や学者より賢いつもりか」と一蹴しておいて、後にその専門家が間違っていたことを指摘しても「当時の最高の知見だった」「後だしじゃんけんだ」と認めようとしない。これは非常に愚かなことだと上記先人が教えてくれる。医者が何と言おうと、白米ばかり食えば死ぬし、第1産科に行けば死ぬ。その目の前の現象を見たまま受け入れなければ何も始まらないのだ。

私が大好きなシャーロック・ホームズの名言を引用する。

「人は事実に合う論理的な説明を求めず、理論的な説明に合うように、
 事実のほうを知らず知らず曲げがちになる」

私たちは今見えていることを口に出し、専門家と称する権威に立ち向かわなければならない。

王様が裸なら、誰が何と言おうと、そんなはずはなくとも、理論を構築できなくとも、裸だと言わなければいけない。

だって裸なんだから。

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