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三年前に砂利を食べていた保護犬が三才になりました【八房、誕生日おめでとう】

八房が我が家の犬となって、本日で三年。
三年前にリキと浜辺を散歩中、ひとりぼっちでいたガリガリの仔犬、それが八房だった。

いざという時の呼び寄せ用のフードを掌に乗せて呼び寄せると、その仔犬はフードを口にし、私とリキの後をオドオドしながらついてきた。
まだ生後半年になるかならないかという月齢であることは、犬と付き合いが長い私には一目でわかった。
八房との出会いや、幼くして彼に植え付けられていたトラウマとの格闘、根気強く取り組んだトラウマ克服の日々などは『リキ〜9つの命を繋いだ運命の犬(下巻)』にて綴ってある。
犬との暮らしに興味関心のある方など、手にしていただければ有り難く思う。

三才になる八房への誕生日祝いをどうするか、二月の下旬頃に考えた。
幸いにもうちの子たち(犬と猫)は身に着けるものを丁寧に使ってくれるので、一度買うと首輪もリードも割と長持ちしている。
当日はいつものフードに美味しい肉など混ぜて食べさせてやるのはいつもの事だが、それ以外の贈り物として現在特に必要と思われるようなものが思い浮かばなかった。
が、ふと
「三才といえば七五三か」
と思い、七五三にかこつけて八房に新しい首輪とリードを買ってやることにした。

私には人間の子供はいないので、七五三の詳しい作法や習わしなどはわからない。
もしかすると、男の子・女の子によって祝う年が違うのかもしれないし、または第一子かそうでないかによって祝う年が違うのかもしれない。
そういった七五三における正しい祝い方はわからないが、昔から伝わる風習であり祝い事であるという事は、昔からきっと「三才・五才・七才」を大事な節目としてきたに違いない。

八房は犬だ。
犬としても、三才というのは節目である。
というのも、精神的に熟し始め、犬としてその身体能力を最も活かせる年齢になるのもちょうど三才頃からなのだ。
三才から六、七才前までが、犬として一番脂の乗る良い時期である。
これから八房の、犬として「最も輝かしい年月」が始まるのである。
ならばやはり、奮発してプレゼントを買ってやろう。
そう思い、新しい首輪とリードを注文した。

新しい首輪が届き、それを着けるために八房がしていた首輪を外すと、意外にも表面の黒色が剥げていることが判った。
首輪自体は傷んでいないし破損していないが、当初真っ黒だった首輪はところどころ色が剥げていた。
「うちに来てからずっと三年間、この首輪を使っていたんだもんなあ」
ところどころ色の禿げた首輪を手に持って、八房がこれまで我が家で過ごしてきた年月を感じた。
年輪のように禿げた色を見て、そう感じたのだった。

新しい首輪はこれまで使っていた黒色とはガラッと色を変え、蛍光色のオレンジだ。
首輪のモデル犬が八房と似ており、そのモデル犬が着用していたのがオレンジでとてもボディに映えていたため、同じような毛色の八房にも似合うだろうと選んだのだった。
予想通り、とても八房に似合う。
何より散歩に外へ出ても、目立ち方が断然違う。
目立つか目立たないか、というのも犬の安全性に関わってくる。
遠くからでもパッと見て「あそこに犬がいる」と他者が認識できることは、それだけで犬の安全を高める。
首輪には反射布も縫い込まれているので、夜間などに外へ出ても車などのライトが当たれば存在を示すことが出来る。
これは良い買い物をした、良い贈り物になったと満足している。

リードも、充電式のLEDライトが付いているものを買った。
夜間に犬を連れて歩くときは両手が自由になるようにヘッドライトを必ず着用しているが、予備となる灯があるに越したことは無いのでライト付きのリードを選んだ。
これも大変明るく、これから季節的に暖かくなれば夜間に犬を連れて散歩に行く事も増えるだろうから活躍してくれることと思う。

八房が三才になり、次は六月に瀑が三才、琥珀が六才となる。
たった三年前のこの日、八房と出会っていなければ瀑は今ここにいなかった。

Xなどの投稿で、私は八房の事を未だに「八房先生」と表すことがある。
赤ちゃんだった瀑から片時も離れず「専任保育士・八房先生」と呼ばれていた頃も懐かしい。
未だにその名残で、私の投稿では「八房先生」が健在だ。
たった三年の間に、色々なものが変わった。
三年前の今日、三年後に本を四冊出しているなど思いもしなかったし、五冊目を作成中などとは考えもしなかった。
「三年もあればもっと色々なことが出来る」人は多いだろう。
だが私にとっては、とても濃い三年間だった。
八房や瀑と出会い、本を作ることが出来、本という形で自分の墓を遺すことも出来た。

まだまだこれから先、子供たちと共に生きていかねばならない。
不安や心配がないと言えば嘘になる。
書くという事を続けながらも、将来のために自分の選択を冷静に考える時も大いにある。
「やれるだけ、やる」それしかない。
限界まで粘ってもやれなくなれば、人は自ずと生きていくための道を選択するものだ。
それは私にも言えることであるし、他の人にも言えることだろう。
人生のステージが変化すれば、優先順位はそれに伴い変化するのだから。

私は公には「カリブ海に住む五才の猫」と言い張っている。
五才というのは猫の琥珀に連動させているので、六月になり琥珀が六才になれば私も「公には六才」だ。
だが書いてきた期間は、実はそれより長い。
noteは今年六月で三年目にしかならないが、ものを書いてきた歴そのものは年数としては二桁だ。
もちろんブランク期間もあったが、何だかんだで今こうして書いている。

自分のライフスタイルにおいて「書く」ということは最も長く自分と共に在った行為であるが、では人生において最重要なものであるかと問われると、私はNOと答えるだろう。

「私の犬が、八房が、今日で三才になったんです」

この一言に、その答えを込めたいと思う。

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