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おい、中華丼

ある程度の年齢になり、自分の世話を自分でせざるを得なくなってからは永遠のテーマであるが、自分が作った料理を食べたくない時期が一定間隔で訪れる。人が作った料理は何でも有難いとか、ファミレスでも吉野家でも何でもいいから人が作ったご飯を食べたいとか、世の主婦が喚き散らす意味があまり分からなかったが、今では完璧に理解出来る。

祖母の代より家族それぞれが飲食店を営んでおり、料理の知識はある程度あったが、当時はネズミだらけの豚小屋みたいな家に住んでたため冷蔵庫や台所が人間が暮らせるレベルに機能していなかったこと、毎回大掃除をして一人分を作るのは面倒だったこともあり、実家にいた頃はほとんど外食やコンビニ、ドミノピザで済ませていた。振り返れば風邪を引く頻度が異様に多かったが、今考えるとあんな健康を侮辱したような生活を続けて中肉中背に少し余分な肉がついた程度の体型で居られたのは奇跡だったと思う。そんなわたしでも料理は意外とすきな方で、一人暮らしをして以降は美味しく栄養バランスが取れたものが食べたい!の一心でよっぽど疲れたとき以外は毎日自炊していた。

世間ではたまに自炊と外食どっちが良いか(コスパが良いか?)論争が巻き起こっているが、わたしは俄然自炊派である。勿論フレンチのコースとかスパイスが決め手の煮込み料理とか、こってりスープのラーメンとか、手間を考えると外食の方が遥かに安上がりで美味しいものもあるが、やっぱり自分の好みの味付けに出来て栄養のあるものを好きなだけ食べられる分、自炊の方がメリットがあるように思う。何だかんだ揃えると自炊の方が高くつく、というのは分からなくはないが、最初に調味料一式を揃えてしまえば自分次第でいつでも出来たての美味しいものを食べられる。調味料だってジャンボサイズを買えば長く使えるし、多少こだわってもそんなに高くはならない。本当に美味しいものが作れたとき、自分に生まれて良かったー!と自己肯定感が上がることすらある。美味しいご飯を作り、よく噛み飲み込むことは、心をも満たすのだ。

自己肯定感が上がるほど上手にご飯を作れるなら自炊が苦じゃないのでは?という疑問が浮かぶ頃だろうか。体調が悪い時を除き、毎日料理をするのは全く苦ではない。料理にはあらゆる工程があり、フォークで肉に何箇所にも穴を空ければ藁人形に釘を打つ感じの爽快感を得られるし、ドラムを叩くようにリズム良く野菜を切ればカラオケ2曲分くらいのストレス発散になる。体を使ってリズムを刻むことは幸福に繋がるのだ。以前から唱えているが、料理はある意味 音ゲーなのだ。つまり台所はゲーセンである。散々遊んだあと更にノルマクリアの褒美として美味しいものを食べられる。そう思えばこんなに魅力的なものはないだろう。

調理の楽しさを褒めちぎったところで、確信に触れたい。世の主婦が喚くに至るのはやはり味付けの面で飽きてしまうということだろう。一人で食べるのであっても、人に提供するのであればより一層、どうせ時間をかけるなら美味しいものを作りたい。レシピを参考にに作ったとて人間たるもの好みがあるから多少の調整は必要で、味見が必要だ。味見をしている内に少しづつお腹が膨れ、いざ食卓に並ぶ頃には朝昼晩と食べ続けた3日目のカレーに匹敵するくらいの飽いた料理になっている。どれだけ繊細に味という名の色を塗り重ねたとしても、作者にとっては灰色のフィルターがかかって見える。お腹と背中がくっつきそうだのイライラするから早く食べたいだのと言いながらペコペコの空腹状態で食卓を囲み、味の想像をする暇もないまま口の中に入れたときのあの感動は、どうしても人様に作って頂いた料理でしか味わうことが出来ないのである。

適当に作ったものや作り慣れたものも、味付けのパターンが決まっているため予想を超えず灰色のフィルターは取れない。最近はフルリモートで仕事をさせてもらえている恩恵を活かし、時間をかけてこだわってみたり、今まで作ったことのない料理を作ってみようや!ワイは出来るんや!と、どこぞの料理漫画のキャラみたいに人差し指で鼻をこすっては前向きに様々なチャレンジをしている。例えばきのこのクリームパスタみたいな簡単な料理であっても、レシピを見ずに作る場合、熱する前の鍋にオリーブオイルとにんにくを入れて弱火で加熱してにんにくの香りを付け、ベーコンを炒める、きのこを合わせる、酒・コンソメ・塩・牛乳とクリームチーズで味を整え煮込んでとろみ付け、味を見てパスタの茹で汁を加え、更にゆで時間短めのパスタを加えてソースを吸わせながら完全に茹で上がった状態に仕上げ、最後に黒胡椒と粉チーズを振りかける。これでも十分美味しいが、味はやはり予想通りである。レシピを調べてシェフの助言を聞きながら作ると、きのこは乾煎りしてから旨味を引き出せと言われたり、鍋に焦げ付かせた旨味を酒で浮かせろと言われたり、ベーコンは細かく刻んで歯ごたえを消し完全に旨みを披露するだけの裏方に回ってもらえと言われたりと、調理方法ひとつで全く別の料理になるので感心させられる。わたしは動画に登場するシェフの方々を、敬意を込め〇〇先生と呼んでいる。

最近八宝菜を作った。中華はすきだが餡がかかっている料理があまり好きではなく、母親には申し訳ないが子供の頃に八宝菜が出るとハズレだなーと思っていた。わたしが料理をする上で欠かせないのは食感で、どんな料理でも野菜の食感を損なわないよう火を通す時間を意識したり、多めに野菜を入れたりするのだが、餡がかかっている料理は食感を鈍らせる。スライムがかかっているみたいだ。決して嫌いではないのだが、自分で選ぶことはない。
そんな八宝菜に対して、好きじゃないけどただ新鮮さを味わいたい!と浮気するカスの理論みたいな目的で作り、思いのほか美味しく出来上がったそれをペロリと平らげたのだが、元々あまり好きではない餡かけを食べたせいか、食後の余韻を残さないまま一気に冷静になり、一心不乱に八宝菜について考えてみた結果、いくつか疑問で頭の中がモヤモヤと霧に包まれた。

まず餡かけ料理の代表作と言えば中華丼だと思うが、そもそも中華丼て何やねん。中華丼て。日本丼すらないのに中華丼て。他国の名前つけるならまず母国の日本丼を編み出してからにせえよ。
何かしら事情があったのかもしれないから、大人として、百歩譲って中華丼のネーミングは認めます。でも中華丼の具 いわゆる中華の部分を担ってるのって、八宝菜じゃない?あれ?そうなってくるとまた話がおかしい。あなたは中華丼と呼ばれてしれっとそこに佇んでますが、本名は八宝菜丼じゃないですか?八宝菜丼のくせして国の旗を掲げるなんてちょっと厚かましくないですか?そもそも八宝菜って八つの具という意味ではなく具沢山ということを表しているそうですが、八具菜で良いのでは?わざわざ宝を入れるところもちょっと厚かましさを感じる。中華丼と八宝菜で名前を分けてるだけあって、さすがに違いはあるんですよね。わたしが無知なだけですよね。だって餡かけが好きじゃないのだもの。餡かけに対して知識が乏しく、それゆえ責め立ててしまうのも無理がないのかもしれません。無知は愚かとはよく言ったもので。今わたしは言葉を知らない原始人。あとは調べて知見を得るのみ。いざ行かん、二足歩行へ。

これ以上興味のない餡かけに時間を割くのはもう面倒くさいので結論のみお伝えしますが、中華丼は日本で考えられた料理であり、中華店の賄いが発祥。丼にする分、味付けの濃い場合などあるがほとんど違いはないとのこと。
違い、ないんじゃん。わたし原始人どころか料理研究家レベルの気付きを我がでしちゃってんじゃん。我(わ)がで。

まぁ美味しかったことには変わりないので、また作ってみようと思います。今後はあくまでも八宝菜丼、と呼ばせて頂きますが…


最後まで読んで頂き有難うございました。

コーラ