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陰陽師 0


「陰陽師 0」を観に行ってきました。

そこで思ったことを書いてみようと思います。



時は平安。

暦や占術、そして呪術は朝廷で管理され、それを行う陰陽師はいわば"国家公務員"でした。

若き安倍晴明は、陰陽師の養成機関の学生(当時の読み方だと"がくしょう"だそうです)です。

その才能は飛び抜けているのですが、本人の"子どもの頃のトラウマ"によって感情を露わにすることはなく、頭が切れすぎて「陰陽術の本質」を見抜いてしまっているため、陰陽師になること自体にもやる気がみられません。

養成機関に入ったのも、陰陽師である養父の"育ててくれた義理を果たす"ためでした。

その晴明が、あるきっかけを通じて公家の源博雅(ひろまさ)と知り合い、博雅からもたらされた事件をきっかけに、大きな陰謀に巻き込まれていくという流れです。


僕が感銘を受けたのは、話しが進んでいく際の"晴明の心の変化"がわかるところです。

最初の頃の晴明は、公家である身分違いの博雅に対しても物怖じもせず、「催眠術」によって"お手玉をネズミに見せかけ"驚かせます。

『事実』は、"ここ"にある(お手玉)ただ一つ。『真実』は自分が"そう思う結果"なので、人によって違う

「だから"思い込みが激しいバカ"ほど、(催眠術は)掛かりやすい」

と、自分の行動や物言いに対し、他人がどう思うかなど"おかまいなし"な感じです。


しかし、晴明が自分も意識の中の憎しみに囚われ、それに飲み込まれそうになったとき、博雅の"ある行動"によって救われます。

博雅は嬉しいときも悲しいときも、それをすることで心が満たされ、感情を"受け入れる度量を持てるすべ"を知っていたのです。

そこから、二人は友情を深めていきます。



そして二人にとって最大のピンチに立ち、博雅がその状況に"絶望"しかけたとき、晴明は

「(お前を絶対救うから)俺を信じろ!!


と博雅を励まし、敵に立ち向かいます。


晴明が自分の素性と、なぜ一連の事件が起こったのかを見事解明し敵を討ち果たした後、晴明は、博雅と勝利の祝杯を上げます。

そのとき、

「結局、これが現実だろうと意識の中だろうと"今こうして(お前と)酒を飲んでいる"ということだ(そんなのどっちでもいい。自分が今、この状況を楽しいと思えるなら)」

※()内は僕なりの解釈


晴明の"頑なに閉じていた心"が、博雅との交流で、人の心は通じ合うことができることを知り、わだかまりを溶かしていくさまが、この映画では描かれていたのです。


人間は自分が置かれた状況の中で、自分の気持ちを整理し、行動に移します。

でもその状況が覆すこともできない事態のとき、自分の感情をコントロールすることは難しいことだと思います。

そのときには自分の支えとなるものをなにか持っていれば、人は救われる。

そう思えました。



映像の凄さと、博雅の儚いラブロマンスも見どころなのですが、この映画はご自身の目で観て、どう感じたかを知ってほしいので、是非映画館にお立ち寄りいただければと思います😊
















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