井戸とそれに関するイメージ

実家のご近所はいまも井戸を残していて使用しておられるお宅があるが、うちはとうに廃止している。私が生まれた時には既に見当たらなかった。
うちには井戸がない、と子どもの頃思っていて、何故ないのか、と母に聞いたら、「ある」と言う。建て増しした台所部分の下に位置していて、「蓋はしてあるが、ガスを抜くために埋めてはいない」という話だった。

なぜ使わなくなったのかと聞くと、「ご近所とは水質が違って、あまり良い水ではなかったからおいしくなくて、やめたようだ」という。ふうん、と何となく不満なまま納得していたが、ご近所の家の井戸をこっそり覗いたりして、心惹かれていた。重い木の蓋をそっとずらして中を覗いて、その家のおじいさんに「こら!」と叱られたりした。

なかには、古い大きな家の裏手の原っぱにぽつんと残されているものもあり、囲いも何もなかったから、とても危険な箇所もあった。周りに子どもの背丈をゆうに超える草が生い茂り、大人たちから「落ちたら誰も気づけんし助けれんから絶対に近寄ってはいかん」と言い渡されていた。

が、子どもら(もちろん私も、というか主に私)は遠目から「そこに気配のある井戸」を眺めて、数メートルのところまで近づいてみては息を飲んでいた。そこだけ丸く草が生えていないのだ。「あそこにある」と思うと、ふちまで行ってみたくもあり、決して行ってはいけないという怖さもあった。

いつだったか、悪童の男の子たちが簡単にそのそばまで駆けて行って「こえー!」なんて言いながら戻ってきたのを見て、何か、自分にとっての神聖な場所に侵入されたようで不快に思ったことがあった。あの井戸は、いまもそのまま残っているのだという。行ってみたいが、そもそも他所の家の裏庭である。大人になると、行くことは叶わない。

実家の、もう見えない位置にある井戸のことを考える。田舎の山あいの村は、大雨の時には鉄砲水が怖い、ということがあるが、実家の裏手は山で、すぐ脇が沢になっている。我が家が井戸を廃止したのは、この沢が実質的に我が家の水場で便利だったということもあったようだ。飲むことは出来ないが、ものを洗ったり冷やしたり、という用途のためには井戸より便利だったのである。

ふと気付いたが、隣の家々と水質が違うということは水脈が違うということだ。よく思い出してみれば、子どもの頃から祖母たちが裏のことを「○○洞」と呼んでいて、近隣の家々の奥の裏は「△△洞」と呼ばれていた。地形としては、小さな洞と洞のあいだに家が点々とある、という形だった。そして洞を遡るようにして山の奥へ進むと、そこにはかつての水田と農業用の溜池があったのだ。

私は池にもとても心惹かれる子どもで、小学生の頃、いくつもの池を子どもひとりで見て歩いて、時には何時間も帰ってこないことがあった。何をしていたのかと思い返すと、池のふちの斜面の上に座ってぼんやり水面を眺めたり、たまに絵を描いたりしていたのだったが、大概は特に何もしていなかった。ただ、色んなことをひとりで考えるのに最適な場所だった。子どもにとっても。

深い緑色の池が好きで、お気に入りの池をそれぞれの地域に見つけては何キロも先まで遠出をしていた。祖母はそういう私にたいそう不安を覚えていたそうで、「あの子は池が好きや、池が好きやというのはあまり良えことではない気がする」と母に相談しているのを聞いてしまったこともあった。

井戸、その地下水脈である洞やその奥にも心惹かれてしまうのは、昔の住民たちが作ったであろう池よりも、もっと深遠な感覚を呼び起こすものだからだろう。

洞のある場所の地形の名前は古い呼び名で、現在の地図にはのっていない。口伝で、母の世代がかろうじて覚えているが、由来は詳しく知らない、という。昔の地図や風土史などを調べれば色々とのっているのだろう。いつかそんなこともしてみたい、と思いながら大人になってしまった。

実家の近隣は、洞の固有名が表すその対象そのものが、かつてそこにあったのだ(今はもうない)。地域としての特徴だったようで、あちこちにその名残がある。

昔、ここに誰かがいた、という気配を感じ取るのはとても不思議な感覚で、私は漠然としたそれを求めて野山を歩くのが好きだった。古い地名をいまも覚えているのは、祖母や周囲の大人たちが、「どこへ行ってきたんや」という問いを投げかけ、私がどこそこと地形で説明すると、「ああ、○○やな」と古い名で呼ぶからだった。不思議なのは、自分と同世代の子どもたちはあまりそういう地形や古い地名に関心がなく、「○○へ行こうよ」と私が誘っても、「どこそれ」と怪訝な顔をされることが多かった、ということだ。

私らしさとは何か、ということを考えてみるとき、井戸や沢や洞、そのさらに奥、果てのない場所がそこにあるのではないか、と思わせる畏怖の対象を求める、そういう感覚が根源的にある、それが自分のなにかだ、という感じがする。

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