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「見えない」が日常になるまで

生まれつき目が見えない私が、初めて「自分は見えていない」と知ったきっかけがある。

4、5歳の頃、母と二つ下の妹と3人でお昼ご飯を食べていたときのこと。テレビでは「笑っていいとも!」が流れていた。突然、テレビからの笑い声。続いて、妹と母の笑い声に驚き、不思議な気持ちになった。

「今の何…。何でみんな笑ってるん?」

母に尋ねると

「今テレビで面白いことやっててん。それ見て笑ってんよ」
「私はわからんかった」

と返した私に、母はこう続けた。

「お母さんたちは目が見えるから、何もしゃべらんとテレビの中の人が動いたりしてるだけでも面白いから笑うねん。でもあっちゃんは目が見えへんねん。だからしゃべってないと何が起きてるか分からんねんよ」

これが最初に目が見えないと知った時の記憶だ。このときはまだ「見えていない」という言葉の意味も、それが実際どういうことなのかもわかっていなかった。母の記録によると、当時地域の幼稚園に通うようになり

「自分はみんなと違うんだ」

ということが分かり始めていたようだ。

幼稚園で言われた

「なんで目が見えへんの?」
「目が見えへんから一緒に遊びたくない」

そんな言葉も同時に思い出した。

当時母がちゃんと「見えていない」という事実を伝えてくれていてよかった。本当の意味で私が「見えないというのはどういうことか」を知って理解するのは、もっと大きくなってからだ。

子供の頃にごまかされていたら、大きくなったとき、きっと傷ついていた。母との信頼関係も保てなかったかもしれない。それに母は私が見えないことを悪いことだと思っている、そんな気持ちになったかもしれない。

「見えない」ことについて考え、悩んだのは高校時代だった。将来への不安、両親の仲が悪かったこともあり、家庭での不安、そこに障害についての思いが重なった時期だ。

見えていたらどこにでも自由に出かけられる。好きな雑誌をいつでも読める。お店に売っているたくさんの洋服の中から、好きなものを自分で選んで着られる。歯がゆい思いやイライラも募っていた。見える友達が羨ましいと思ったことは数えきれない。

でも、当時から一緒に洋服を買いに行ってくれたり、出かけてくれる友達がいた。気になる雑誌を読んでくれる家族がいた。「見えないからできない」と思っていたことを周りの力を借りて、できるんだと少しずつ知っていった。その頃から、どうやって頼めば自分の欲しいものが買えるのか、欲しい情報が得られるのか「頼み方の工夫」を自然と身に付けていった。

高校時代の恩師の言葉で印象的なものがある。社会科の時間のことだ。先生からこんな質問を投げかけられた。

「『障害を克服する』っていう言葉をどう思う?」

当時の私がどう答えたのかは憶えていないが、その後に続く先生の言葉ははっきり憶えている。

「先生は障害を『克服する』っていう言葉は好きじゃないねん。だってそうやろ。みんなが障害を克服するってことは、それは『目が見えるようになる』ことやん。それは無理やろ」
「確かに、それは無理やな」

すっと心に入ってきた。見えなくてできないことを「どう工夫するか」を考えるようになったのは、このときの会話も影響していると今になって思う。

進学、就職、引っ越し、転職、出産、子育て…。人生の節目には必ず「見えなくて困ること」がたくさんあった。これからも間違いなくある。

見えないことで困ることやできないことが日常になっているように、またそれを工夫する方法も日常だ。困ったことやできないことを一人で抱え込むのではなく、周りの人に相談したり、ネットで情報を集めることも工夫の方法を広げてくれる。私にとって「見えない」ことは克服するものではなく、自分の一部として迷ったり悩んだり考えたりしながら、工夫していくものだ。

40年以上全盲として生きて来て、たくさん失敗をして、工夫の方法をそれなりに身に着けてきた。10代の頃見えないことにイライラしていた私に

「工夫できることはたくさんあるよ」

と声をかけてあげたい。

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