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【山梨県立考古博物館】春季企画展「一の沢遺跡出土品展」を見に行く

はじめに

 一の沢遺跡は縄文時代中期を主体とする集落遺跡で、山梨を代表する遺跡のひとつです。本年は一の沢遺跡が国の重要文化財に指定されてより25年となります。
 山梨県立考古博物館では、春季企画展「重要文化財指定25周年記念 一の沢遺跡出土品展」(2024.4.20~6.16)を開催し、出土資料の持つ意味や魅力を再確認しようとするものです。一の沢遺跡の重要文化財全176点が一堂に展示されるのは初めての機会となります。

サインボード
ハナミズキが咲いてます

重要文化財指定25周年記念 一の沢遺跡出土品展

 一の沢遺跡の出土品というと人が踊っているかと思うように見える人体文土器や土偶「いっちゃん」でご存じの方が多いように思います。「いっちゃん」は、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」の「三十三番土偶札所巡り」では堂々の一番札所を名乗る土偶でもあります。

踊る人といわれる人体文土器
土偶「いっちゃん

 ほかにも、縄文中期の集落跡のため、土器の造形や文様、装飾は中部高地の縄文の特徴を表していて逸品が多いのです。

一の沢遺跡出土品展

 また、これらの土器が大量に住居址、土坑から廃棄された状態で見つかっていることも特徴のひとつです。

大量に廃棄された土器(上)
マスコットキャラクターと「いっちゃん」(中)
人体文土器の展開写真(下)

 「いっちゃん」に戻りますが、山梨県立考古博物館のマスコットキャラクターにもなっています。

一の沢遺跡

 一の沢遺跡は笛吹市境川町小黒坂に位置します。この辺りは御坂山地と曽根丘陵の接点で、丘陵や扇状地になっており旧石器時代から近世にかけての遺跡や古墳が集まっている地域です。

一の沢遺跡の位置や意義を概説

 下記地図の赤部分が一の沢遺跡ですが、ほかの青い部分は遺跡です。ほかに古墳が多く点在しています。

周辺は遺跡と古墳だらけ

 一の沢遺跡の発掘は、1982年(昭和57年)から11次に渡り調査が行われてきました。住居址46軒のほか多くの土坑などが発見されています。土器の文様や装飾のほかに、土器が大量に廃棄された住宅址と土坑も注目され、1999年(平成11年)出土物のうち176点が国の重要文化財に指定されています。
 一の沢遺跡は二つの集落から形成されており、それぞれが直径100m程度の環状集落であると考えられています。ただし、発掘されたのは全体のごく一部です。下記画像で着色ある円形が二つの集落と考えられる位置です。

黄色が11回に渡る調査の位置、全体のごくわずか

一の沢遺跡ヒストリー

 展示では一の沢遺跡を現代の重文指定までを時系列的に紹介しています。

「一の沢遺跡ヒストリー」の概観

 一の沢遺跡で最も古い土器は、縄文時代早期末から前期初頭といわれる
繊維土器です。繊維土器は、粘土の中に植物の繊維を混ぜ込んで作った土器で縄文時代前期の土器です。この時代から一の沢に人が住むようになってきました。

縄文早期末から前期初頭の繊維土器の破片(右)と
縄文前期の深鉢形土器片

 前期前半から4軒、前期後半から5軒の住居址が見つかっています。また前期後半からは他地域から土器の流入もみられるようになっています。信州産黒曜石による交流が周辺の遺跡で見られるようになる時期と一致します。

関西の影響を受けた土器

 中期前葉になると理由は定かではないものの住居が作られなくなります。しかし、中期中葉になると人々が戻ってきます。住居跡から規模は前期よりも大きくなっていきます。また装飾に多くの特徴的な文様がみられる中期特有の土器がみられます。
 そして、中期後葉に住居数のピークを迎えます。

中期中葉の土器片(パネル文土器、区画文土器)

 しかし、縄文時代後期になると住居はなくなります。次にここへ人々が戻ってくるのは古墳時代になります。

後期前半の深鉢形土器片

 最初の発掘調査は、1982年(昭和52年)です。農業水利事業として畑作地に導水管の埋設に伴う調査でした。その後農道の工事など、調査が続きました。1983年(昭和58年)の第2次調査、1996年(平成8年)の第9次調査の成果が中心となり、1999年(平成11年)国の重要文化財に176点が一括で指定されました。構成の内訳は、土器類25点、土製品44点、磨製石斧、打製石斧、石製品類107点です。

重文の指定書
指定理由の写し

 一の沢遺跡を価値について重要文化財に指定された2つの理由を解説しています。
 (1)中部高地における縄文時代中期中葉・勝坂式(井戸尻式)土器の代表的な資料であり、特にその造形は他の追随を許さない。
 (2)土堀り具としての打製石斧や調理具としての磨石・凹石等がと比較的多く出土しており、当時の植物採集を中心した生業活動をよく示している。
 ただし、(2)については次項で紹介しますが近年の研究により植物利用の可能性も指摘されています。

石器と植物利用

 打製石斧やの磨石、凹石等の出土についての展示です。石器類の多さ、内容もさることながら、その後、土器片の中からアズキとシソの種子の圧痕が発見されており植物利用の根拠となりました。

石器、土製品、植物の圧痕を展示したケース

 下記は、アズキとシソの圧痕の画像です。土器片の圧痕に歯科用のシリコンで象りしたものを電子顕微鏡で見た写真です。
 圧痕は土器を作る粘土の中に種子が混入したもので、積極的な植物利用をしていたことが分かる資料です。
 諏訪の考古学者藤森栄一などが縄文農耕論を提唱し、たびたび議論に上がるものの定説には至りませんでした。近年栽培作物の種類が明らかになったことで積極的な植物利用が分かってきました。

アズキとシソの圧痕の電子顕微鏡写真

 シリコンで形取りしたアズキの種子の形です。

アズキ

 そしてこちらはシソの種子の形です。

シソ

 こちらは、中期中葉の打製石斧です。解説では、アズキとシソの種子の存在から石器は土堀り具としてだけでなく、植物採取目的の可能性にも言及しています。

打製石斧

 石皿、磨石、敲石たたきいし、凹石などです。木の実などの調理に使われたと考えられます。

石棒、石皿、磨石、敲石、凹石

 小型の土製品です。耳飾り、ミニチュア土器、浮子などです。

土製品

 遺跡からよく見つかる土製円盤です。土器の一部を欠いたりして周りを丸く削って作られています。用途は分かっていません。

土製円盤

土器

 前述の重要文化財指定の理由として、土器は勝坂式(井戸尻式)土器の代表的な資料であり、特にその造形は他の追随を許さないほど抜きに出ているとしていました。
 深鉢形土器が並ぶケースとその隣に釣手土器(香炉形土器)の小ケースがあります。どれも装飾が見事な中部高地縄文の土器です。
 土器の文様について解説があります。「装飾的文様」と「物語性文様」の2つがあるといいます。「装飾的文様」は美的効果を目的としたもので、「物語性文様」のほうは共有する物語や神話があったとしており、このあたり異端とされたきた井戸尻考古館の解説を彷彿とさせる踏み込んだ解説です。

土器展示の概観
いずれも深鉢形土器(中期中葉)

 下記画像の、手前左は第2次調査5号住居より出土した中型の土器、口縁には二つの突起があります。胴部中央は隆帯のほかに文がなく下部で
 手前右は特に大型の土器です。第2次調査93号住居より出土したといいます。突起はありませんが隆帯などで描かれた文様があります。

いずれも深鉢形土器(中期中葉)

 こちらは釣手土器(香炉形土器)です。頭頂部が発見されていませんが内側で火を灯していたと思われる形状をしています。

上部の欠損している釣手土器(中期中葉)

 展示室中央のケースにも土器の逸品があります。

 まず、3つの深鉢型土器は2次調査11号住居址からの出土です。
 左は全面的に縄文がつけられています。内部にはススが付着しており実際に煮炊きに使われたといいます。
 中央は突起があり隆帯でJの字のような文様など描かれています。
 右も突起があり口縁はやや大きく広がっています。隆帯で文様など描かれています。

深鉢型土器(中期中葉)

 続いて有孔鍔付土器です。上部はシンプルです。有孔鍔付土器の特徴である口縁は平らで鍔と穴があります。中ほどから下には見事な造形です。解説ではこの土器の使用目的について太鼓説と酒造器説かあることを紹介しています。

有孔鍔付土器(中期中葉)

 続いて水煙文土器です。渦巻きのような把手を水煙りになぞられえて命名されています。

水煙文土器(いずれも中期後葉)

 反対側から見ると、水煙の把手のみのものもあります。解説では、この把手のみ埋納されていたり、完全な形が見つかるものが少ないことから土偶のように壊されるなど儀礼として行われていたと推測しています。

水煙把手(中期後葉)

 続いて土器に描かれた動物の紹介です。イノシシ、ヘビなどをモチーフにした土器の把手などが多く発見されています。イノシシは多産の象徴としてとらえられています。ヘビは復活の象徴です。

動物をあしらった土器と土器の一部

人体文土器

 一の沢遺跡の代表的な土器です。隆帯で描かれた形が人のように見えます。

人体文土器と背後の展開写真
人体文土器を反対側から

 人体文といわれる文様が分かるように360度展開した写真です。三角頭が女性で2人、丸頭が男性で2人描かれていると見られています。踊っているとする説や神をあがめている人たちとする説があるといいます。

展開写真から見える4人の人たち

土偶

 土偶も多数見つかっておりますが、バラバラにされた部分的なものしか見つかっておりません。
 一の沢遺跡で有名な土偶は「いっちゃん」ですが、それでも上半身だけです。ほかにも頭部が2点ありますが、こうした比較的大型で残るものは少数派です。
 土偶は女性を表現したといわれています。ばらばらに壊される理由として、病気治癒、豊穣、安産、命の再生などの祈りを捧げる道具といった説がありますが、解説では、女神の体をバラバラにして埋めるアジアを中心とした食物起源神話(ハイネレウェ型神話)との関わりを示唆しており、山梨県立考古博物館の解説にしては踏み込んでいます。土偶についても異端とされてきた、井戸尻考古館でいう「古事記」「日本書紀」に見られる食物起源神話説を扱っていることになるからです。

土偶の概観
「いっちゃん」
「いっちゃん」の後姿
寝顔のような土偶

第2次(第9次)4号住居址と土器の大量廃棄

 一の沢遺跡では完成された土器が大量に廃棄されているのが見つかっています。他の遺跡でも意図的に廃棄されている土器が見つかることはありますが、廃棄の実態は多様であり理由の詳細までは分かっていないといいます。

 4号住居址は、第2次調査で北半分、9次調査で南半分の調査が行われ、南北6メートル、東西4.6メートルの楕円形の住居址であったことが分かっています。土偶「いっちゃん」もこの住居址から出土しています。
 今回は4号住居址で廃棄された土器から土器片まですべてを一堂に展示して、廃棄された土器の多さを体感してもらう趣旨だといいます。

第2次4号住居址の廃棄土器の概観

 廃棄されている土器ですが、たいへん丹念に作られており、重要文化財に指定されるだけあり豪華な完成された土器です。

いずれも重要文化財
左ケースの土器、中期中葉

 土器の形式はほとんどが井戸尻Ⅲ式のため5000年~4900年前に一度ないし複数回にわたり廃棄されたといいます。またこれだけの完成度のものが惜しみなく捨てられいるのです。

こちらも重要文化財がずらり

 こちらのケースには大量の欠片があります。中には土器の把手部分だけ集めようなものもあります。

おびただしい土器の破片

第2次調査56号土坑の土器

 土坑は何かを貯蔵したり家の柱を埋めたりしたと考えられる人が掘った穴の跡です。
 56号土坑は、最大1.1メートルの楕円形、深さは60センチメートル程度の土坑です。こちらには4つの土器が出土しています。

56号土坑の4つの土器

 ほかの土坑からも土器が見つかっています。土坑に被せるように埋められていた土器や、炉に使われた土器があります。

左が炉に使われた土器

 一の沢遺跡では100を超える土坑が確認されています。土坑には目印となるような石を入れてあることから、後から埋めた場所が分かる必要があったといいます。

他の土坑の土器

敷地内に移築された敷石住居

 駐車場横の「古代の広場」という屋外展示には、縄文時代の竪穴住居などが復元されています。その中に「一の沢(西)遺跡」の竪穴住居址が移築保存されています。「一の沢(西)遺跡」からは、竪穴住居址に混じって1軒の敷石住居址が発見されました。
 敷石住居址がは縄文後期の遺跡にみられます。石英閃緑岩の板石が敷かれた住居で状態の良いものであったことから考古博物館敷地内に移築保存されました。
 ただ撮影を失念したから言うのではありませんが、「古代の広場」は保存状況は決してよいとは言えません。

おわりに

 山梨県立考古博物館で縄文と聞くとすぐに名の挙がる一の沢遺跡を特集した展示でした。土器など見所の多い展示です。普段より見学者も多いように感じました。企画展示は無料なのもありがたいです。
 訪問時、外は今にも雨が降り出しそうな天気でしたが、昨年と同様にハナミヅキが白と薄桃色の花を咲かせていました。

ハナミヅキの向こうが「古代の広場」
紅白のハナミズキ

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