僕の宝物。

先日、各地の病院へ出張しラジオ番組を放送する、その内容と様子をドキュメンタリーにした「病院ラジオ」というNHKのTV番組を再放送にて視聴した。
番組及びラジオののMCをお笑いのサンドウィッチマンが努め、院内に設置したラジオブースにその病院に通院する患者さんをゲストに招いて病気やそれにまつわる様々な想い、気づきを話して貰うのがメインだ。
元々この番組について知ってはいたものの、病院を舞台に、患者や関係者をまず一番の現場リスナーとしている以上、どんなにサンドウィッチマンがプロとして重くならないトークを広げようとどうやっても薄暗いイメージを拭い去ることは出来ないのではと思い、放送日を把握してもイマイチ観る気になれなかったのだ。
しかしTwitterで(正式にはXですね。どうもまだTwitterと言ってしまう)一時トレンドに上がり、番組内におけるサンドウィッチマンの傾聴の姿勢について感服するツイートが目に留まり、すごく気になってしまった。そしてついNHKのアプリで再放送を観た。
私が今まで、この病院ラジオを避けていたのは、単に舞台から想像する暗さだけではない。番組内に出演する患者さんたちを観て、健康は大事だ、感謝しなければなどど薄っぺらな感想を持って、一歩間違えれば自分と較べた卑しく愚かな満足を無意識にでも得そうなのが何より嫌だったのである。
しかし番組を観て私ははっとした。
患者であるゲストが颯爽として、サンドウィッチマンのお二人のいるブースに現れ、まっすぐに前に座る。そしてそれぞれの表情が思っていたよりずっとキラキラしている。勝手なイメージで患者はやはり、どうしても隠せぬ重苦しさを背負いながら出て来るものだと思っていたから私はまず圧倒された。幸せ、と言えば流石に語弊があるだろうが、でも生き生きしていると言って過言ではない。そんな彼らの顔つきに衝撃だった。特に今回はがんの専門病院での放送であり、この場にいて生死について真面目に考えない人は恐らくいない筈だ。そんな目のくらむような恐ろしい深淵を自らと近しいものとして接した人が、生き生きと話している。そう私なんかよりもずっと。それが何だかとても眩しかった。
しかしそれとは真逆に彼らの口から出る言葉はやはり軽快とは言えない。病名、ステージ、治療、時には余命の話……。単語だけ聞けばついなんと言っていいかわからず黙り込んでしまうほどだ。けれど彼らの顔と口調は変わらずこちらが面喰うくらい明るい。そうして彼らの未来に立ち向かう希望と勇気となっているのは家族や周囲からの献身と愛情だと言うことがわかると私は家族の愛に恵まれた方ではなかったから特にボロボロ泣いてしまった。この番組はサンドウィッチマンと対面するラジオブースの映像以外に、待合室で待つゲストの家族、ラジオに投稿した患者、静かにラジオを聴いている入院患者や医療関係者などが別にカメラに映される。それがまた穏やかで、何とも言えない空気をそれぞれに映し出している。でもそこに映るものは全て誰かの気持ちに寄り添う「愛」だったように思う。幾らゲストが明るかったからと言って勿論皆が乗り越え、生き生きと過ごそうと決められる訳でもない。一組の御夫婦が院内の片隅で「老後、妻とゆっくり楽しもうと思っていたらがんになり、妻もすっかり涙もろくなってしまった」と言う旦那さんの投稿が読まれるのを聴いていたが、奥さんはやはり泣いていて、少し困ったように旦那さんがハンカチを渡そうとした後、「出来るだけ笑顔でいきましょう」と声を掛け、「はい」と顔を覆いながら奥さんが涙声で返した時、私はそこで一番号泣してしまった。旦那さんを愛しているのだなあと思ったし、旦那さんもまた奥さんを愛しているのだと思ってもう堪らなかった。受け入れることも受け入れられないこともどちらも愛故だからこそであるけれど、あの奥さんが一日でも多く笑顔で夫婦穏やかに過ごせるようになって欲しいと私は心から願っている。
最後のゲストのリクエスト曲は槇原敬之の「僕が一番欲しかったもの」だった。
著作権等があるのでここに歌詞は載せられないが、
自分の存在に関わることが誰かを笑顔にする、それだけが、それこそが何より宝物で、生きる意味でそれに気づいたならあなたはもう一生分の幸せを手にしたんだよ

大体そう言う意味の歌詞を聴きながら、ふと番組の冒頭、サンドウィッチマンを見て、明日手術だと言う年配の女性が嬉しそうに二人の傍に寄ってきたり、今年20の女の子が憧れのKpopアイドルを追い掛けて韓国に一人旅をすると言うのを思い出したりして、その笑顔の向ける先が、向けられる先が仮に家族じゃなくても、所謂推しやファンだとしてもそんな相手に出会えたことがもう一生分の幸せなのかもなあとも考えたりもしたのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?