夏が来る

気が付けば5月も半分過ぎようとしている。
ついこの前、桜が満開になったと思っていたが、うかうかしている間に夏が来てしまう。

どこまでも青く遠い空。五感の全てが研ぎ澄まされて、目の前に広がるのは強い光に照り返された白い畦道だ。眩しくて思わず麦わら帽子越しの目を細めてしまう。少し遠くの森からは煮えいるような蝉の声が重なって聴こえて来る。

…とまあ何だか詩のようなことを書いてみたが、別に私がそんな経験をしたかというと多分してない。
夏と聞いて思い浮かぶイメージ。即ち概念である。
でも夏と言うと妙に憧憬を抱きがちな人は私ばかりではないように思う。何故か夏には経験したことのないことをいかにも経験したかのように惑わせる、いわゆる、ない記憶が蘇ってくるのが有りがちだ。

本当は夏に海なんて滅多に行かないし、そもそも陽キャがいくものだと馬鹿にしている卑屈な陰キャ思考なのに、何故だか水平線の煌めきや浜辺に好きな人の名前を書いて、それを波が攫って行く、そんな妄想に勝手にセンチメンタルになる人は多かろうと思っている。そう私だけじゃない。だよね?

が、現実の夏をどう思うかと言えば別。寧ろ真逆である。
昨今の夏はもう猛暑どころのレベルではない。もはや殺人的だ。うっかり外なんか出た日には熱中症でぶっ倒れる。とにかく日中は一歩も家から出たくない。そこに雅だの風流だの、わびさび、ノスタルジックを感じる余裕はない。
日本の田舎で少年が過ごしたひと夏をテーマとした名作ゲーム、ぼくの夏休みの時代背景は昭和50年だそうである。あの古き良き日本の夏を味わうことはもはや地球規模で不可能になってしまった。

令和の我々にとって現実の夏休みを楽しめるのは概念でしかないのもこうなるとある意味仕方がない、そう言っておきたい。

しかし、年々、現実の真夏に身体が耐え切れなくなっていく一方で、夏(概念)への憧れは一層増していくのは不思議だ。もう老いていくだけの人生における反動なのだろうか。そう考えると切ないが、自らの過去を振り返っても心に焼き付いているのは夏の記憶ばかりだ。それが夏(概念)の憧れの思い出補正だとしても、そもそも夏には他の季節にはない特別に感じる何かがあるのだろう。
夏はより五感を刺激するように思う。西川のアニキもカラダが夏になるとか言ってるし、四季の中でもっとも心身に感じやすく、記憶に残りやすいのだと思う。

だから夏に、カラダも心も感じるままに外に出るのは人間として大事な時間なのかもしれない。特に情緒の形成途中の子どもにとっては特に。
とは言え、散々書いたが令和の少年少女にそんなことはとても無理である。それが気の毒だ。

存分に外の空気を楽しめるのは、ちょうど初夏の今頃しかなさそうだ。
私ももうこの時季をぼんやりと過ごしたら、いつの間にか梅雨が来て、それが明ければもう昼間にのんきに外出など出来まい。
貴重な今を大事に楽しみたい。


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